人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨と原初のもの

2017-05-13 09:23:44 | 現臨、ハタラキ
ずっとこのブログを読んでいる方ならお判りでしょうが、私はここで特定の宗教や思想、あるいは特定の修法について、私自身も依拠していませんし、そうしたものを他に向けて示したりもしていません。
そういう特定の人向きのものならこの世にゴマンとあります。
ゴマンとあるという事はそれが世の主流ということなのでしょう。
特殊という事でしたら、私はこの世に二つとしてない、ユニークな人間だと自認してはおりますが、精神的な道において私は特定の何ものかであると主張するつもりは無いのです。
そういうことは、私が他の追従を許さないユニークな人間であることで十分なのです。私以外の全ての人がそうであるように…
ここで私が述べていることは、このような主流的特定の道に依拠し、追従する生き方への逆説であることに気が付くでしょうか…
私はOO教徒、OO主義者、OO法の修士…それらはその依拠するものに従属していて、独一無二の自分では無い、と言っているようなものです。
私は、事実上あの現臨に触れて以来、特定の何ものかであることが出来なくなってしまいました。
それはあるいは所謂哲学思想や宗教信仰、スピリチュアルな教えという枠組み、装いで言い表すことはおそらく出来るでしょう。
するとそのような方法で伝えられた人は、その言葉を超えたものを哲学、宗教、スピの教えとして認識してしまうことでしょう。
多くの人はこのように内奥でその現臨自体と邂逅し、捉えられる以前に、概念認識の手段としてそれら思考の枠組みの中に取り込んでしまうのです。
(後述するように、実際は邂逅しているのに、自覚されていない場合も多いことでしょう)
しかし、このようにして直接的な伝達の道(これは人の思いを超えたところで行われる)は絶たれるに至るのです。
人は例えば、ある書物を読むなりして、突然意識が高揚してきて、この現臨というものの片鱗に触れる事があるかも知れません。その段階はまだ概念認識による加工は進んではおらず、共鳴、共振による感動も生なままの原体験と言ってもいいでしょう。
しかし、何と多くの人は、そこからその言葉にならない言葉を自分の持ち物のようにして、自分の生き方、信仰の道具のようにしてしまう事でしょう…。
”素晴らしい言葉だ…何というこの上ない思想、これを揺るがない信仰にしよう…”
こうして第一義的な、原的なものから二義以下のものに変質してしまうのです。
それは現に臨んでいる自己という現存の外には見いだされ得ないのです。
それにある特定の宗教で信じられている神の名、あるいは高次自我、守護の神霊といったもので解釈することは自由でしょう。
しかし、凝り固まった思念で意味を限定してしまえば、その内実から切り離されてしまい、現に生きたものでは無くなってしまうのです。
ただ、自己の深部にそのものが生き、ハタライているか、現存しているかどうかが最も肝心な事なのです。
生きてハタラクものは、それ自体にハタライてもらうしかありません。
限界ある自己が主導とはなり得ない…限りある思念、意念で手をかけてはならないのです。
如何なるメソッド、修行法があろうと、その根源的な意志に根差していないならば意念でフタをする事にもなり兼ねません。
誰にでも原体験というものが有るでしょう。突出した体験でなくとも。
理屈の無い歓喜の瞬間…しみじみとした生への感謝の思い…これを抽象的な概念に置き換えることなど出来ません。
そのことを思考で捉えようとせずに、ただ感じて、味わってみれば、自分を超えたハタラキというものを見出すことが出来るでしょう。
そしてただそのものが自然にハタラクことにゆだねるだけです。やがてそれ以外に何も為し得ないという事が分かってきます。
自分を超えているという事は、自分が思っている、信じている以前からそのものであるということです。
現臨とは、人それぞれの原初的なもの、それなしでは自己が成り立たないもののことでしょう。これは、誰にとっても例外なしにそうなっている筈のものです。
自分自身であるだけのことは、なんとそんじゃそこらじゃ見つけられないのです。思われた自分よりも間近にあるものなのに…
そんな訳で、このヘンテコな私のため、あなたのために今日も書き続けているのです…。










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