人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨と持続するもの

2021-09-11 09:51:49 | 現臨、ハタラキ
"現臨に与るということはどういうことなのか?"...これは神、仏、キリスト...呼び名は何であれ、そういう"神的なもの"に惹かれてやまない心情を持っている人には説明を要しないでしょう。
私は、昔からそういうものを朧気ながらも感じていたのです。
それが自分の思いを超えさせてしまう、という感じは持っていました。こちらに超えたい、という願望があるのか、そのものの方が惹き付けるのか?
ことに本格的に精神的な道を求めるようになってからは、宗教書などを読み、言い知れぬ心地になり、意識が高揚してくるのを覚えたことは何度もあります。
ただ初めの頃は、それはフツーの意味で書かれている文章に感激した、という風にしか感じませんでした。
感激するということは、心が動かされること、心の作用ということで、フツーは感覚的なこととは結びつけられないものです。
ところが、ある時から私が内的感覚と呼んでいるものが芽生えてきまして...
これは、よくあったものでは、具体的に手の辺りに、物理的な熱さとは異なる、"中から"感じられるものを覚えるようになったのです。
しかし、それも不思議には思ったものの、"そういうこともあるだろう..."、ということで特に意識することは無かったのです。
著者が書いている内容に感応したのだろうと...まだ多分に、そこで記されている神的なものについての、思想的な部分に多く意識が向けられていたようなのです。
そこでは思い描かれることと、身に覚えることがごっちゃになっていたと言わざるを得ません。
心に感激したことというものは、多くその時限りのもので、持続性というものはありません。
だから...現臨に与らんとするのなら、心の作用というもので納めてはならないのです。それは身に覚える内的感覚を伴うものなのだから...
それは今、それが感じられることで、それが持続されるものということが分かるのです。(仏哲学者のベルグソンが確かそのようなことを言っていた気もするのですが、難しくてよく覚えてません。ともかく生命の躍動~エラン.ヴィタールは持続するのです)
そのことを意識してみる...意識するということは、考えごとにしないということです。
言い換えると、思想的なことよりも、そこで指し示される当体なるもの、即ち神的なものそのものに意識を向けるということです。
あの感じはそこから来るということは、自明ではないでしょうか?
このことは、何も覚醒であるとか、特別な体験に囚われる必要はありません。
仮にそういうことがあったとしても、それは、神的なものの現臨の中で起きるものでしょう。
要するに、"ご自体なるもの"無しには何ごとも始まらないということです。
"Be awareness!"...最愛なるものに惹かれてやまないものを感じている人には、もう始まっているのですi
コメント
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