人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ストンと落ちたこと

2019-10-06 05:14:25 | 回想
私は今でこそ、"チョイと意識を向ければパッと現臨が..."、なんて摩訶不思議なことを言っておりますが、当然のことながら昔は、そうなることを目指し、例えば瞑想なんてことはほとんどしてませんでしたが、熱心に祈ったつもりでもそんな風にはならなかったのです。
30数年前、初めて現臨に捉えられ、人生の裏側に踏み入れてしまった時でさえそうだったのです。
"ああなった通りのことを踏襲さえすればいいんだ..."何つったって何も特別なことしてないので、やりようがありません。
その頃は兵庫県尼崎に住していて、月一回同県高砂市にあった「大調和協会」に参じたり、日曜にはよく小池辰雄先生のキリスト召団の大阪集会に通っていました。
どちらにも集会中、参加者の中に何ていうか、法悦状態のようなことが見られたものでしたが、あのことの直後の大調和協会の集まりで少し変調に見舞われた以外は、ほとんどそんなことに与ったことなどありませんでした。
大阪召団のU先生という人はそりゃもう、大変なド迫力、大音量で、異言を交えて"主様にぶっかっていくんやi ぶっつぶれるんやi"と、マシンガンのように言葉をぶつけてくるのでしたが、私はどうぶつかり、どうぶっつぶれていいのか、とんと分からず、かと言ってお地蔵さんのようにじっとしていると、"何しとんじゃあi"と言われるかもしれず、身の置きようのない思いをした思い出があります。
その頃のことを考えれば、これは大変な霊的進歩と言わねばなるまい...なーんて言える訳無いi
まあ、確かにあの頃とは心境も変わったところはありますよ。そりゃ伊達に歳食ってる訳じゃないんだし...15キロ以上は体重も増えましたし...言えることはとにかく、その頃は真面目でした。
それに比べて近頃の堕落ぶりときたら...人生何て何かが進めば、何かが退き、何かを得れば、何かを失うことの繰り返しみたいなもんじゃありませんか?
これは何度も言うように、私の信仰とか修行など、私の何ものかによってそうなったとは言えないのです。
そうなった端緒となった時のことはアリアリと覚えています。
21年前のこと、玉城康四郎先生の書き物で、何という本だったか忘れました(先生は随所で同様のことを述べております)が、"精神的目覚めの内実とは、形なき命ーダンマが業熟体(個的であるとともに、業縁が織り成す共同的なもの)に顕わになることであって、そのことを一個人に纏わる何ものかに帰してしまえば、その内実は失われてしまう"、という意味の文章にともかく意識が向かわせられたのです。
"そうだったんだi...自分が目覚めたり、悟ったりする訳じゃ無かったんだi..."ということが、頭で納得するのでなく、腑に落ちたというか、頭の中で何か絡まっていたものが解けて、下のほうにストンと落ちたように感じたのです。何かじんじんと浸透してくるようにも...
"意識が向いたら、パッと..."というのは、全くこういうことを言っているのです。
"私が..."という主我的な意識状態にあっては、中々"通らなかった"ものが、その時から何か回路みたいなものが出来たという感じです。
それはどうも"頭の線"でない、身体性に意識が開かれることと関係があるようです。
それもこれも、"私が..."でない方に意識を向かわせるものがあるためです。
どこまでも、ダンマ、如来、聖霊、現臨...呼び名はともかく、こちら側のものでない、そのものの為せるものという他ありません。
だから...やり方が分からないし、自分がどうした、こうしたという感じがしてこないのです。主我性に囚われないように図られているように...
多分、私が人一倍自意識過剰に陥りやすい性分だからでしょう。

コメント
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