人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

非二元と帰依

2018-05-08 18:14:26 | スピリチュアル
所謂非二元の道の教師にラメッシ.バルセカールという人が居りました。
数年前にその「誰がかまうもんか?」(ナチュラル.スピリット刊)という本を読みましたが、そのサブタイトルに「ラメッシ.バルセカールのユニークな教え」とありますが、今じゃちっともユニークじゃ無いですね(笑)
"存在するものは意識だけ
起こることはみんな神の意志
何かをやってる個人というものは居なくて、自由意志というものは無い"
もう、お馴染みになったフレーズはここに満載されてます。
この本はさして評判になったということは聞きませんが、割りとその周辺に影響力があったことが伺えます。
毎度言っていることですが、そういうリクツが分かったところで、"だからどうした!"としか言い様がありません。
分かったような気でいる人でも、誰もが"オイ、何でアイスコーヒーにフレッシュを入れてかき混ぜないんだ?"、"コーヒーとフレッシュの分離を楽しもうと、僕の自由だ..."てなやり取りをしているし、自由意志にものを言わせて、さして意識する訳でもなく、注文に応じたものがテーブルに出てくるようなことをしている訳です。
個人の自由意志というものは、見せかけということになるらしい...そうかもしれません。
でも、、本当に見せかけることというのは、実際に理解している訳でも、腑に落ちている訳でもなく、無理に教えに合わせようとしたり、分かったフリをしようというところにあるのではないでしょうか?
ただラメッシの教えには、「バクティ(帰依)から教えが始まる」ということも強調されていて、これは実に頷けることであり、決して蔑ろにされてはならないものです。
ラマナ.マハルシは勿論、ラメッシの師、ニサルガダッタ.マハラジでも非二元の道と関連づけられるジュニアーナ(知識、探求の道)とバクティとは切り離されないものだったのです。
そっからしか何も始められないでしょう。如何なる道を歩もうとも...
それは始まりであり、帰着でもあり、常にそれと共にあるものでしょう。
そのある契機には自分という個人が無くなるように感じることもあるでしょうし、だんだん自分が何かをしているという感覚も希薄になってくる...かもしれません。
バクティとは、祈りであり、ラメッシも述べているように、その基調にあるものは「御心のままに」ということです。全託ということもこの中にあります。
私は実際にそういうものに導かれたと言ってもいいのです。いつも"意識が向いたら、パッと..."などと言ってますが、それは、"御心のままに"という響きに心身共に包まれるようなことなのです。
そう、それは意識的な状態です。意識は現臨と一つになっている...神的なものの意志のまにまに、というものが感じられる...御心のままに...です。
起こることは、自分自身が決めたようなことは、みんな神の意志なのか、どうかは知りません。そんなこた、知らなくてもいいことでしょ。
神の意志だったとしてどうなる? 自分が大切にしていたものを失ったら...人から理不尽な扱いを受けたら...悲しみや怒りを押し殺して、悟ったように済ました顔していられますか? 見せかけで...
しかし、あの"現臨"に捉えられてしまったら...もう、何が有ろうと選択の余地などありませんi
そこで置かれた現実を受け入れるしかありませんi 起こる事象そのものは同じだし、その現実そのものは変えることは出来ないでしょう。
しかし、意識が神的な現臨にあることで、事象とは別にそこに表層の思い、感情を超えた愛、平安がもたらされてくるのです。
それは、"すべては神の意志..."と信じようとしたり、思い込もうとしたってそうなりません。
現実にそうならざるを得ないものが生きてハタラクことでそうなるのです。それは確かにあなたという個人の自由意志ではどうにもなりません。
ただ、そのものに同調することは出来る...そこに祈り、帰依というものがあるのです。
それを望むのはあなたの自由...か?
本当にリアルなものには、個人が居るとか無いとか、二元とか非二元とかは無いでしょう。




コメント
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