教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

後月郡教育会史研究会編『後月教育をきり開いた枝益六』

2022年04月09日 10時18分00秒 | 教育研究メモ
 岡山県井原市に後月郡教育会史研究会という研究会があります。後月(しつき)とは、岡山県後月郡、現在の井原市のことを指します。井原市内の学校を退職された先生方が集まって、地元にあった後月郡教育会やその周辺の関係する教育史について、熱心に研究されています。2018年に会長のT氏が周りに声をかけて結成され、昨年5月、いったん研究成果をまとめて『後月教育をきり開いた枝益六』を発行されました。
 私は同研究会結成以前から研究に関わっておりましたので、同著に以下の祝辞を寄せさせていただきました。発行からしばらく経ってしまいましたが、せっかくなのでここで紹介させていただきます。

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 このたびは出版おめでとうございます。本書は、後月郡教育会史研究会の先生方による努力と情熱の結晶です。枝益六は、阪谷朗盧(素)・坂田警軒に並んで後月教育をきり開いた大人物の一人でした。枝が活躍した明治期は、日本初の公教育制度創立の時代であり、各地にその大事業に尽力した人物が登場しました。枝益六はその一人です。
 枝の業績の一つに、後月郡教育会の創立があります。教育会は、明治期に全国各地に誕生し、地域の公教育普及・改良に取り組んだ団体でした。その多くは戦後直後に解散しましたが、地域の公教育を自分事としてつくっていくために地域の人々にとって欠かせない「よりどころ」でした。後月の地にその「よりどころ」を創ったのが枝益六です。枝益六研究は今後の後月郡教育史研究に大いに資するでしょう。後月郡教育会史研究会には、枝研究にとどまらず、いっそう研究を進めていただくことを願います。私も微力ながら助力させていただければ幸甚です。
 令和の世になり、明治・戦後直後に続く公教育の大転換が迫っています。この激流に向き合うためには、自らの地域の歩みを確認することがまず大事です。この後月の地で、江戸期の教育遺産を継承しながら前人未踏の公教育制度を立ち上げた枝の歩みは、今を生きる我々にとって貴重な知的財産となることでしょう。読者の皆さんが、本書によって「史心」をかきたてられることを望みます。
 (後月郡教育会史研究会編『後月教育をきり開いた枝益六』私家版、2021年に寄せた拙文より)
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 本書でクローズアップされた枝益六(1847~1909)は、福山藩士の子で、1871年に備後国大門村啓蒙社(窪田次郎の建議から始まった啓蒙所の一つ)で教師に就いて以降、39年間教職を勤め続けた教育者です。1874年に福山誠之館で井出猪之助から小学校教授法を授かり、1875年に小田県伝習所(現井原市興譲館)で伝習証書を得て元之小学(現井原小学校)の首座訓導となって以降、後月郡教育の中心人物になりました。当時は1872年の学制による公教育制度がまだ未発達のころです。まさに枝は、後月郡の公教育実践の元を作った、井原市の教育史には欠かせない重要人物の一人です。
 枝は、後月郡の巡回訓導や小学督業をつとめながら、後月中学の教頭や精研高等小学校長を務めています。また、私立後月郡教育会の初代会長をつとめ、外部との連絡にも積極的につとめており、地域に外部の情報を、県外・県内に後月郡の情報を伝える役割を果たしました。よく言及される枝の業績の一つには、岡山県内二番目の幼稚園として1886年に元之小学附設幼稚保育場(現井原幼稚園)を設置したことです。また、音楽教育にも注目して、1889年に県教育会雑誌に寄稿しています。誰でもできる子守の延長としてしか幼児期の教育が認識されていなかった当時、そして小学校の音楽教育もまだ必須ではなく「加えることのできるもの」でしかなかった時代に、枝は早々に幼稚園を創設し、かつ小学校における音楽教育の工夫を県内全域の教育者に問いかけたのです。そのほか「後月の地理」の制作や人類学(考古学)研究にも取り組みました。枝は、1896年に福山尋常小学校・福山女子尋常高等小学校の校長に転出し、広島県の比婆郡・世羅郡の視学を歴任しました。1904年からは愛知県の安城農林学校の教師を務め、同職在任中に死去しています。枝は、岡山県はもちろん、広島県・愛知県の教育史にもかかわる重要人物といえるでしょう。
 『後月教育をきり開いた枝益六』は、枝の愛知でのことや、実弟の枝徳二(1863~1932、台南庁長で嘉南大圳などの灌漑工事を進めた)のこと、元之小学の後任校長であった平野恒吉のこと、そして後月郡教育会などについても詳しく記述され、周辺人物・組織も含めた枝のことがよくわかる伝記になっています。

 後月郡教育会史研究会のことも少し。同研究会のT会長は、2004年に井原小学校でまとめて見つかった『私立後月郡教育会報告書』第1~60号(1893~1917年)の研究を志し、長年研究されていました。私は2011年頃からT会長に教育会史研究のことで相談され、2015年から時々、直接・間接に関わってきました。自分でも研究させてもらいましたが、やはり「地元の教育史は地元の人間が研究していくのが望ましい」という思いから、T会長に研究会の組織化を何度か持ち掛けるうちに、同研究会が結成されました。もちろん、T会長にもお考えがあってのことですが、かつて全国各地に存在し、地域の公教育を作りあげてきた地方教育会の研究を、地元の方々が自らの手で進めていかれていることが、私にはとてもうれしく思います。
 後月郡教育会史研究に私が直接かかわるきっかけになったのが、2015年に井原市教育センターの自主事業で私が講演した「明治期における研究する教師の起源」でした。その内容は、博士論文に関する研究(のちの『明治期大日本教育会・帝国教育会の教員改良』)と鳥取県教育会の研究(『鳥取県教育会と教師』)を組み合わせた文脈のもとに、『私立後月郡教育会報告書』の歴史的意義を指摘したものでした。地元の校長先生や歴史に関心のある先生などが聴きにいらしたのですが、後になっても「あのときのことは覚えていますよ」と言っていただけることがあります。それが今の研究会につながっているので、話した甲斐、教育会の研究をしてきた甲斐がありました。
 後月郡教育会史研究会は、今は『現代語訳で読む私立後月郡教育会報告書』上巻・下巻をまとめていらっしゃるとのことです。教育会雑誌を現代語訳する活動はおそらく史上初めてのこと。コロナ禍以降、井原市にまったくうかがえていないので、不義理を重ねております。2019年の拙稿「岡山県後月郡教育会による地域教員の組織化と学習奨励―明治・大正初期(1893~1917年)を中心に」(科研費中間報告書所収)以降、研究課題がたくさん残ったままなので研究を進めたいですが、はたして…。
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