教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

[1883~92]大日本教育会の結成と模索

2011年01月29日 21時04分35秒 | 教育会史研究

 とりあえず、本日、大仕事終了。今日明日はもう何もしない方がよさそう(疲れがピークに到達)。2月末にもう一つ大仕事、3月中旬には論文〆切。来週からがんばることにする。

 さて、引き続いて、旧HPテキストの補完です。明治16年から25年の大日本教育会について述べています。「研究論文業績一覧」にリンクを貼っている論文の5番・9番・11番は、このあたりの時期を取り扱っています。近著の『続・近代日本教育会史研究』(梶山雅史編、学術出版会、2010年)に掲載した論文「全国教育者大集会の開催背景―一八八〇年代末における教育輿論形成体制をめぐる摩擦」も、このあたりの話です。
 このテキストを書いて5年。あれから研究がかなり進んだので、今書けばだいぶ違ったことが書けるような気がします。


2,日本初の全国的教育団体~大日本教育会の四苦八苦~
 明治16(1883)年~明治25(1892)年

 大日本教育会は、明治16年9月9日の常集会で文部大書記官・辻新次(後に文部次官)を会長に選出しました。ただ、元東京教育学会長であった西村貞の役員就任辞退を発端として、辻は会長就任を辞退して副会長となり、しばらく会長不在の状態にありました。明治17(1884)年に文部少輔・九鬼隆一を会長に選出、初代会長となりました。しかし、九鬼はすぐに公務によってアメリカに滞在することになり、再び会長不在の状態が続きます(代わりに辻副会長が会長事務を取り扱いました)。明治19(1886)年4月、再び辻新次が会長に選出されるに至り、辻は明治29(1896)年10月まで会長を務め続けました(途中辞任して空白時期がありましたが)。
 上記のように結成当時の大日本教育会は組織的に不安定でしたし、活動自体も軌道に乗ったとはいえませんでした。役員になっても給料が出るわけではなく(書記は有給)、全くのボランティアでしたので、がんばっていたのは一部の人だけ。役員になっても公務の都合で出席できなかったり、地方転任などで東京から離れたりと、あまり安定した運営ができません。一般会員も、お金を出すならまだよいほうで、多くの会費未納者まで現れました。退会・入会を繰り返す人も、中にはいたりします。また、毎年一回総集会を開いていましたが、会員数3,000名以上を数えながら一般参加者を入れて数百名程度の参加者数でした。さらに、毎年のように改正される大日本教育会規則、機関・事業の小刻みな改廃などを見ても、運営に苦労したことがわかります。人手も足りない、お金も足りない、しかも日本には前例がない、という八方ふさがり状態の中、結成当時の大日本教育会は四苦八苦しておりました。日本初の全国的な私立教育団体でしたから、運営する側(役員)も支える側(一般会員)も、すべてが手探り状態で要領を得なかったと言えましょう。
 しかし、このような状況の中でも、演説会開催(結成~)、『大日本教育会雑誌』発行(明治16年11月~)、教育関係書の出版(明治18年6月~)、討議会開催(明治19年4月~)、継続的な学術講義の開催(明治19年9月~)、附属書籍館(現教育図書館の前身)の設立(明治20年3月開館~)などを実施していきました。明治21(1888)年以降は研究機関を設置して文部省から諮問を受けるほどになり、明治23(1890)年ごろまでに基礎的な組織体制が確立してきました。明治23年5月には全国教育者大集会を主催し、日本全国から800名以上の教育関係者を集めました。さらに、翌明治24(1891)年には現在の日本連合教育会の前身ともいうべき全国教育連合会(翌年には全国連合教育会と改称)を開催し、全国各地の府県教育会から代表者を集めて教育問題を審議しました。また、委員会を組織して著名・有力な教員などに各種問題を研究調査させ、明治25(1892)年には、現在でも資料的価値の高い『維新前東京市私立小学校教育法及維持法取調報告書』を発行しました。さらに、明治24年から、教育に功労のあった人に対する顕彰活動を開始しました。

図3:大日本教育会・帝国教育会会章
 明治22年7月20日の第六回総集会で初めて用いた。色は『大日本教育会雑誌』89号624頁の記述に従って白石が彩色。中央の曲玉の周りにある輻射状のものは、三つ又のものが光線、一つ又のものが剣を擬したもの。

 (以上、2005年4月頃に執筆)

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