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「解体新書」を翻訳した杉田玄白は翻訳者としてブレイク後 医師としても大成功した

2018-02-25 04:08:08 | Weblog

◆蘭訳の解剖図説を翻訳 『解体新書』として刊行
 杉田玄白(1733~1817)は、1733年、牛込矢来(現・新宿区矢来町)の若狭小浜藩の下屋敷で、藩医の子として生まれた。十七、八歳頃、幕府の御典医・西玄哲の門弟となって医学を修得し、二十歳で父同様に藩医になる。しかし玄白は小浜に居を構えず、1757年には江戸に住み、日本橋に開業し、町医者となった。
1754年、日本の医学界にとって衝撃的な出来事が起きる。医学者の山脇東洋が、京都所司代の許可を得、死刑囚の解剖(腑分け)を行ったのだ。この国内初の人体解剖により、蘭書に描かれていた解剖図の正確性が確かめられたのである。
これに刺激を受けた玄白は1771年、ドイツのクルムスの解剖書の蘭訳本『ターヘル・アナトミア』を手に、盟友・前野良沢や中川淳庵らと共に骨ヶ原刑場(現・荒川区南千住小塚原刑場跡)で腑分けを見学、解剖図の正確さに驚くと同時に、同書の翻訳を決意するに至った。
習得を諦めていたオランダ語の指導は蘭学者・前野良沢に頼み、中川淳庵のほか、桂川甫周など仲間たちの協力も得ながら、ようやく翻訳出版に漕ぎ着けたのは、三年半後の1774年8月のこと。題して『解体新書』。この書物は、将軍にも献上されている。
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◆四十代以降に結婚 娘婿が跡継ぎになった
 結婚は、当時としてはかなり遅い方だった。『解体新書』の翻訳が山場を越えた、四十一歳の時である。見通しが立ったことで、身を固める気になったのかも知れない。
妻・登恵との間に、一男二女を儲けている。しかし、長男は幼くして死去。登恵も闘病の末、結婚十五年で亡くなる。
跡継ぎを失った玄白は、門弟の一人建部伯元を次女と結婚させ、跡継ぎとする。杉田家の家督を継いだ伯元は、やがて玄白同様、小浜藩の藩医となった。
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◆九つの幸福を得て 永遠の眠りについた
 1776年、浜町に開業、併せて「天真楼」と云う医学塾を開く。『解体新書』を翻訳したことから、学者若しくは研究者的なイメージの強い玄白だが、今で謂う臨床にも優れていた。江戸きっての外科医として評判をとり、多くの患者の治療を行った。医院に腰を据えっぱなしと云うわけでなく、年を取ってからも、診察に出かけていたと謂う。その一方で、芝居見物など余暇も十分に楽しんだ。
玄白は晩年、自らを「九幸」と号し、これを愛用した。この語には彼の人生観が投影されている。九の幸いが意味するところは、次の様なものである。

一、泰平の世に生まれたこと。

二、都(江戸)で成長したこと。

三、貴賓を問わず人々と交友できたこと。

四、長寿に恵まれたこと。

五、安定した俸禄を受けていたこと。

六、貧しさを経験せずに済んだこと。

七、天下に広く名を知られたこと。

八、子孫に恵まれたこと。

九、老いてますます壮健であること。

明治に入って福沢諭吉らが再版した回想録『蘭学事始』を執筆したのは、玄白が八十三歳の頃だった。さすがに、体調にも陰りが見え始め、シャックリやかすみ目が出て、手足にも衰えを感じる様になり、歯もすべて失った。
そして1817年、玄白は八十五歳で世を去った。世に名をなし、健康や家庭にも恵まれた幸福な人生だった。


(画像・杉田玄白肖像画、国立科学博物館で展示された『解体新書』の複製、回想録『蘭学事始』)



*まとめ
 自ら「九幸」を名乗るほど、他人も羨む幸福な晩年

          


                         「その後」の日本史
                             幸せな余生を送った偉人たち

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