Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

菫(Violet)  Viola mandshurica 謙虚 誠実

2019-05-01 04:20:17 | Weblog






  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆謎多き浮世絵師 東洲斎写楽とは、いったい何者だったのか?

2019-05-01 04:12:48 | Weblog

江戸時代の浮世絵師を代表する一人、東洲斎写楽。 写楽が描く役者絵は、それぞれ役者一人ひとりの個性が際立っており、それまでのただ美しいだけの役者絵とは全く異なっていた。
写楽のデビューは寛政6(1794)年5月のこと。歌舞伎役者を描いた28枚の大首絵であった。
行き成り28枚も発表されたことにも驚かされるが、この役者絵は高価な雲母刷りを多用して刷られたことも異例であった。 写楽の絵を出版したのは、当代随一の出版人・蔦屋重三郎である。蔦屋が写楽の才能に惚れ込み、一流の出版人ならではの意気込みで費用を惜しまず写楽の浮世絵を発表したとも考えられるが、それにしても破格の待遇である。
写楽はデビューから10ヵ月あまりの間に精力的に作品を発表する。
その数、140数点にも及ぶ。ところが、その後、パタリと発表が止み、以後、写楽の絵が世に出ることはなかったのである。 一説には、デビュー作が最も優れており、その後の作品は発表する度に稚拙になって行き評価が下がったとも、写楽の役者絵はあまりにも写実的だったので被写体である役者の不評を買い、役者絵を描くことが出来なくなった為ともいわれている。

*写楽の正体は能役者か、複数人による絵師の集団か?  
写楽の浮世絵師としてのデビューも、その後、姿を消してしまったことも、あまりにも唐突だったが、写楽最大の謎といえば、その正体は誰なのか、ということである。
何故なら、写楽の出自について、全く記録が残っていないからである。
無名の絵師が突然の華々しいデビューを飾ったことから、葛飾北斎や喜多川歌麿のような浮世絵師の大家が、普段とは違う画風を描く為に、写楽の名を語ったとも謂われるが、この説はあまり有力視されていない。
現在、最も有力とされる説は、阿波藩の能役者・斎藤十郎兵衛だったという説である。
これは天保年間(1830~44年)に発行された「増補浮世絵類考」の「写楽 俗称は斎藤十郎兵衛。八丁堀に住む。阿波の能役者。号は東洲斎」という記事が根拠になっている。
実際、能役者名簿にも斎藤十郎兵衛の名はあり、八丁堀に住んでいたことも確認された。
また埼玉県越谷にある寺の過去帳に十郎兵衛の名があり、実在が証明された。 阿波藩の能役者という立場から正体を隠したというのも納得行く説明である。
ただし、十郎兵衛説は有力だが定説にはなっていない。 他にも写楽の正体は個人ではなく、蔦屋が抱えていた複数の無名の絵師たちによるグループだったのではないかという説もあり、写楽の正体探しは続いている。


江戸切絵図「本八丁堀辺之絵図」
写楽の正体と目される斎藤十郎兵衛の父と考えられている「斎藤与右衛門」の名が中央部に確認できる。


                  日本史ミステリー
                     歴史の転換点で起こった「奇跡」の伝説


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする