Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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一炊の夢  「枕中記」

2017-07-22 16:30:33 | Weblog





開元七年、道士の呂翁と云う者がおり、神仙の術を会得していた。邯鄲への道中、ある宿屋で休息をとった。
帽子を脱いで、帯を緩め、袋に寄りかかって座っていた。
間もなく、通りがかりの青年が見えた。これが盧生である。
粗末な短い上着を着て、青毛の若い馬に乗り、ちょうど畑に行く途中、宿屋で休憩をしたのである。呂翁と相席となり、暫く、談笑してとても楽しそうにしていたが、盧生は自分の身なりの貧しいのを見て、ため息をついて言った。
「男子としてこの世に生まれたのに、思うようにならず、この様に困窮しております」
呂翁が言った。「お前さんの体を見たところ、苦痛もなければ、病もない。愉快な話しもできる。なのに、困窮していると嘆くのは、どう云う訳じゃ?」
盧生が答えた。「私はいい加減に生きているに過ぎません。どうして楽しいなどと言えましょうか」

呂翁が、「これが楽しくないのなら、何が楽しい?」と聞くと、盧生は言った。
「男がこの世に生まれたからには、功績を挙げて名をあげ、外では将軍として、中では宰相として働き、贅沢な食事をし、優美な音楽を選んで聴き、一族は栄え、一家は豊かになる。そうなって初めて楽しいと言えましょう。私はもともと学問を志し、六芸の知識も豊富でした。その当時、自分では高官を得られると思っていました。今や壮年を過ぎたと云うのに、相も変わらず畑仕事に明け暮れております。これが困窮でなければ何だと言うのです!?」

言い終わると、目が朦朧としてきて、眠くなって来た。
この時、店の主人が黍を蒸していた。呂翁は自分の荷物から枕を取り出すと、盧生に差し出して言った。
「わしの枕を使いなさい。お前さんが望むような栄達をさせてやろう」

その枕は青磁でできていて、両端に穴が開いていた。盧生が枕に頭を乗せて横になると、その穴が段々大きく明るくなったのが見えた。そこで体を起して中に入ると、すぐに自分の家に着いた。

数ヶ月後、盧生は清河の崔氏の娘を娶った。妻は美しく、財産は益々増えたので、盧生は大いに喜んだ。これより、着る物、乗る物も日に日に豪華になり、翌年には進士に推挙され合格し、庶民の身分を脱し、校書郎と云う役職に就いた。勅命で渭南の県尉に任ぜられた。またすぐに、観察御史に移り、起居舎人という役職に替わった。三年後、同州の長官となり、また陝州の長官に移った。盧生は土木工事を好み、陝州の西から八十里に渡って、不通だったところに運河を掘って通した。地元の者は、便利になったので、石碑を建てて彼の徳を称えた。

この後、汴州に転任となり、河南道採訪使となったが、召されて、京兆の尹となった。この時、玄宗皇帝は蛮族を討ち、領土を広めた。ちょうど、吐蕃の悉抹邏と燭龍の莽布支が瓜州・沙州を攻め落として、節度使の王君毚が殺されたばかりで、黄河、湟水一帯の人々は大いに驚き恐れた。皇帝は将軍としての才能のある者を考えた末、遂に盧生を御史大夫中丞・河西道節度使に任命した。大いに異民族を破り、敵の首七千を斬り、領土を九百里広げ、三つの城塞を築き、要害とした。辺境の人々は居延山に石碑を建て功績を称えた。都へ戻ると論功行賞があり、皇帝の賞賜は非常に厚かった。吏部侍郎に転任となり、戸部尚書兼御史大夫に移った。当時、声望は高く、人々に慕われた。ところが、これが時の宰相に大いに忌み嫌われ、根拠のない噂を立てられ、端州の刺使に左遷となった。

三年で召し返されて、常侍となった。そして、幾らも経たないうちに、同中書門下平章事(宰相)となった。中書令(中書省の長官・宰相)の簫嵩・侍中(門下省の長官・宰相)の裴光庭と共に十年余りに渡って政治を執り行った。皇帝の政策や密命を一日に幾度も受け、良いことは進め、悪いことは止め、心を尽くして皇帝に仕えたので、優れた宰相と呼ばれた。しかし、同輩がこれを妬み、辺境の将軍と結託して謀反を企てていると、またしても誣告された。投獄の命令が下り、役人が部下を引き連れて門前まで押しかけて捕らえようとした。盧生はこの災難に恐れ驚き、妻子に言った。
「わしは山東に家があり、良い畑が五頃(約2900アール)もあり、飢えと寒さを凌ぐには十分であった。どうして苦労して官禄を欲しがったのだろうか。今となっては、短衣を着て、青毛の子馬に乗り、邯鄲の道を行こうと思っても、適わない・・・」
そして、刀を取って自ら首をかき切ろうとしたが、妻に救われ、死を免れた。この罪に関係した者は皆死罪となったが、盧生だけは宦官に助けられて、罪を減じられ、驩州に流罪となった。

数年後、皇帝は冤罪であったことを知り、再び救って中書令とした。燕国公に封じられ、皇帝の思し召しは格別であった。
五人の息子があり、倹、伝、位、倜、倚と云った。
皆、才能があり、器量を備えていた。倹は進士に合格し、考功員外となった。伝は侍御史となり、位は大常丞となり、倜は万年の県尉となった。倚は最も賢く、二十八歳にして左襄となった。姻戚はみな名望のある家柄ばかりであった。孫は十人余りいた。

盧生は二度辺境に左遷され、二度宰相となった。
中央に入ったり、地方に出たり、朝廷内を巡り回った。
五十年以上、位は高く勢いがあり、世に現れ出た。
性格は非常に贅沢で、遊びを好み、奥屋敷に入れた女たちは皆第一級の美人ばかりである。
これまでに、皇帝から賜った良い田畑、邸宅、美女、名馬などは数え切れないほどであった。

その後、段々と衰えて来て、度々辞職を願い出たが、許されなかった。
病気になると、皇帝に仕える宦官たちが次々に見舞いに訪れた。
名医や上等の薬も来ない物はなかった。
死が迫り、上奏した。
「私は、元々山東の一儒生に過ぎず、畑仕事を楽しみとしておりました。幸いにも陛下の恩寵にあずかり、官員として名を連ねることができました。身に余るお褒めを賜り、格別なご恩をいただき、外に出ては、節度使としての旗を持ち、中では宰相の地位に就きました。この様に内外を巡っておりますうちに、長い年月が経ちました。陛下の恩寵に感謝するばかりで、陛下をお導きする助けともならず、身に余る位にあって害を残し、薄氷を踏むような思いで、心配し、一日一日と恐れつつも、知らず知らずのうちに老いておりました。今、齢八十を超え、私の位は三公を極めました。最早寿命も尽き、筋骨共に老い、病は重く気力も衰え、最早死を待つばかりで御座います。顧みますに、何ら功績もなく、陛下のご聖徳に報いることもなく、虚しく大恩に叛いたまま、この御代を去ります。誠に心残りでなりません。ここに謹んで上奏文を奉り、謝罪する次第です」

皇帝が詔して言うには、「そなたは、優れた徳を以て、朕を輔佐し、出ては地方を鎮めて国を守り、入っては輔けて天下を太平に導いてくれた。二十余年の平和はそなたの力に因るものである。病を得たと知り、日々平癒せんことを願っておった。難治の病とあっては、まことに心配である。今、驃騎大将軍の高力士に命じて見舞わせる。しかと治療し、我がために自愛せよ。諦めず、快癒する希望を持つように」と。

しかし、この日の夕方、死んでしまった。

盧生は欠伸をして伸びをすると、目を覚ました。
見ると、自分の体は宿屋の中で横になっており、呂翁が傍らに座っていた。主人が蒸していた黍はまだ煮えておらず、元のままである。盧生は跳び起きると言った。
「夢だったのか?」
呂翁が盧生に向かって言った。
「人生の楽しみとはこんなものじゃ!」
盧生は暫く茫然としていたが、
「栄誉と恥辱の道、困窮と繁栄の運、得るもの失うものの道理、死と生の情理、すべて分りました。これは先生が私の欲念を抑えんと教えて下さったのですね。ありがたく教えをお受け致します」と礼を述べた。そして、頭を地につけて二度礼拝して立ち去った。

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栄枯盛衰も、ひとときの夢の様に儚いものであることの喩え。「黄梁一炊の夢」「邯鄲の夢」とも言う。




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