Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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宦官でも結婚する? 「宦官列伝・簡単宦官講座」より

2017-07-09 05:33:13 | Weblog




性器を切除してしまった宦官に夫婦が居たと云うのは、少々奇妙に感じられるかも知れませんが、
実際にはかなりの数がいました。

一般の宦官が社会から軽蔑され内廷においても奴隷と同じ扱いを受けると云う孤独感を考えれば、
心の安らぎを求めて妻を持ったとしても不思議ではありません。
その歴史は古く、漢代には「対食(タイショク)」と呼ばれ広く知られていました。
唐代ではあまり聞かれませんが明代になると「菜戸(サイコ)」と呼ばれ、
初めの頃は秘密裏に行われていましたが、後になると公然と行われる様になり、
遂には、いつまでも相手を見つけることの出来ない宦官は「廃れ者」として軽蔑される程にまでなって行きました。
結婚相手は、ほとんどが女官なのですが、この夫婦は格別の愛情を持っていた様です。

ある菜戸が二人の宦官から結婚を申し込まれ、一人の宦官と結ばれたとき、
振られたもう一人の宦官は憤った挙句官を捨てて僧になって再び姿を現さなかったり、
宦官と菜戸のどちらかが先に亡くなると終身再婚しなかった者も居たそうです。
また、高位の宦官の中には失った性器の復活を願う者もおり、
明代の魏忠賢は人の脳髄が失われた性器再生に良く効くと云う術士の言葉に惑わされて、
罪人七人を殺してその脳髄を食べたと言われています。
他にも同じ明代の酷吏の高采も同様の方法を試していた所をみると、
当時、高位の宦官の間でこの方法が流行っていたのかも知れません。

 


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糟糠の妻は堂より下さず 『後漢書 列傳 伏侯宋蔡馮趙牟韋列傳』

2017-07-09 05:28:32 | Weblog




時に帝の姉の湖陽公主、新たに寡なり、帝と共に朝臣を論ず、
微かに其の意を観る。
主曰く、 宋公の威容徳器、群臣に及ぶ莫し、と。
帝曰く、 方に且に之を図らんとす、と。
後に弘を引見せ被らる、帝、主をして屏風の後に座せしめ、因りて弘に謂ひて曰く、 諺に言ふ、
貴びては交はりを易かへ、富みては妻を易ふと、人か、と。
弘曰く、 臣聞く、貧賤の知は忘る可からず、糟糠の妻は堂より下さず、と。 帝顧みて主に謂ひて曰く、 事諧ととのはず、と。



光武帝の姉である湖陽公主が未亡人となった。
光武帝は湖陽公主と臣下に関して論じ、秘かに湖陽公主の気持ちを観た。
湖陽公主は言った。
宋弘殿の厳かで徳が溢れ出る様は、朝臣多しと雖も及ぶ者はおりません、と。
光武帝が言った。
それでは宋弘に図ってみようではないか、と。
そして光武帝は宋弘を引見し、湖陽公主を屏風の裏に座らせ、宋弘に言った。 諺に位が高くなれば友を替え、
富みては妻を替えると言うが人情であろうか、と。
すると宋弘が云った。
私はこのように聞いております。
貧賤に知己となった者を忘れては為らない、
苦労を共にした妻を家から追い出しては為らない、と。
これを聞いた光武帝は屏風の方を顧みて云った。
事、調わず、と。

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「糟糠の妻は堂より下さず」の糟糠は、「かす」と「ぬか」のこと、
ひどく粗末な食事のことであり、貧しくて糟や糠の類しか食えずに艱難を共にして来た妻は、
喩え、後日処を得て富み栄えるようになっても、これを棄てやったり、粗略に扱ったりはしないと云うこと。

 


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