きっかけがあって、ある人が苦手になることがある。
Bは職場に出入りしている、黒人のにぎやかな人で、あることがあってから、苦手になった。
彼が来ると、顔を合わせなくて済むようにする。
声が大きいので、店内どこにいても声が聞こえてくるのさえ、忌々しい。
私がそう思っているのは伝わるもので、向こうも声をかけてこなくなった。
そんなことが何回か続いて、いい加減疲れてきた。
誰かを嫌うことは、とっても疲れることなのだ。
同僚と違って、毎日会うわけじゃないけれど、Bが来ると確実に疲れる。
何年か前にも同じようなことがあった。
私はその人のしたことに腹を立てていたし、何日か挨拶もしなかったのだけれど、人を無視するというひどい行為に、自分が1番疲れてしまうことに気づいた。
後生大事に抱きしめて正当化していた、元となったきっかけも、
よく考えたらどうでもいいことのように思えてくる。
笑って話しかけたら、笑顔が返ってきて、ストンと胸のつかえが下りた。
先日、Bが来たとき、
「Hi、B!」
と名前を呼んだ。
それまで名前を呼んだことなどなかったけど。
Bは一瞬だけ驚いて、すぐに笑顔になって、私の肩に手をおいて
「Hi、Dear!」
と言った。
あの時と同じように、ストンと胸のつかえが下りた。
私が誰かを嫌って、避けたりして疲れるのは、罪悪感と、
自分からしておいて、自分がしているのと同じことをされている辛さからだと思う。
それに、私が故意ではなくやったことで誰かを怒らせて、そのたった1度きりのことで、その人の世界から締め出されるとしたら、それはなんと寂しいことだろうか。
好きにならなくてもいい。
別にその人と一緒に暮らさねばならないわけじゃなし、好きでも嫌いでもないところにいればいい。
嫌いなこと、嫌いな人、気に入らないこと、許せないことがたくさんある人がいる。
そういう人はたくさんの「意見」を持っていて、コントロールしたがるけれど、どこかで「どうでもいい」と思わなければ生きづらそうだ。
嫌なものよりも、好きなものがたくさんあるほうが、絶対に幸せだ。
嫌なものを、「どうでもいい」ところにもっていけるのは、自分しかいない。
嫌なものが、自分好みのものに変わるのを待っていたら、それは永遠にやってこないだろう。
結局、嫌なものがある場所を離れて、自分好みのものがある場所を探して渡り歩くか、ずっとコントロールできないものをしようともがいているか。
何年も前に学んだはずの練習問題に、私はまた間違った答えを書いた。
一歩進んで、三歩下がる・・・・
きっとまた、忘れたころに同じ課題がやってくる。
その時には最初から正しい答えを書ける私でありますように。