紫苑の部屋      

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夜桜能

2007-04-04 20:22:53 | 観劇
夜桜能、昨年に続いて2度目です。
お能が、神事である、ということを実感させてくれたのが昨年でした。
火入れの儀式は厳かです。火がなかなか灯らないからといって、手抜きなどしない、そこがいい。
何度も試みます、やっとついたかと思うとまた消え入りそうに、あかあかと立ち上って拍手が起こりました。

舞囃子という素の舞、「小袖曽我」
謡の意味はさっぱりですが、上下姿の男たちの舞いは凛々しくていいです。
萬斎さんの「狐塚」、狂言師はおどろくほど声がとおります。
(万作、萬斎さんの「釣狐」、昨年はとうとう見れなかった!即日即刻チケット完売なんですもの、見たい人がみれるようになんとかしてと叫びたいです。)
そして「半蔀(はしとみ)」
シテは田崎隆三、ホントは梅若六郎さんのファンなんですが、今回演目(能では番組というのかしら)で決めました。
面(おもて)からほほははみ出ているし、声もくぐもっているしで、六郎さんのよくとおる声でなかったのは残念ですが、
序の舞、その優美なお姿には、ホントに夢幻の世界にいざなわれるようでした。
薪能も2度見たことがありますが、夜桜はもうそれだけで華やかな舞台です。
むしろその桜に負けない舞台をつくりだすほうがたいへんかもしれない。
でも、それは拮抗するという関係ではないのですね。
前半の舞台には、立花が置かれています。
演目の小脇に“立花供養”とあり、これを小書というらしいが、僧がその供養をしていると、夕顔の精があらわれるということになります。
立花は池坊に残るものと同じで、生花を池坊の華道家が活け、本当に花の供養をしてもらっているわけです。
立花が浮き立つことのないよう、舞台に溶け込むことをこころがけたという。(ちょっと残念なのは、夕顔ではなく白百合だった)
この能楽堂も由緒あり、戦争をはさんで移築してこれだけが残ったということであり、
それらすべて伝統そのもの、まねごとではなく、本物の迫力、
それがみんな調和しているところが、観客のこころをつかむのでしょう。

夕顔は六条御息所とおぼしきの生霊ではかなくなってしまった、その霊は浮かばれてない、ということなのでしょう。
僧の前に姿をあらわし、魂の救いを求めます。
後シテが登場する場面は一段と印象的です。
瓢箪のつるがからまる蔀が舞台に運ばれてきます。幕を開け、半蔀を開けてあらわれる、夕顔の君、
前シテの唐織りの豪華な装束も美しいですが、後シテの朱の袴に白の上着の美しさも目を見張ります。
この衣装は巫女の姿だと思います。
地謡とともに源氏とのなれ初めを語り、だんだんと高揚してくる、そして序の舞、
そしてまた半蔀のなかへと姿を消します(退場は橋懸かりをとおります)。夢のまた夢と、静かな最期です。
07/04/03靖国神社
のち


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