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秦暉:フランクフルト・ブックフェア騒動(訳文)(2)

2009-09-28 11:34:16 | 中国異論派選訳
騒動のうねり

 会議前の激しい世論の反発ですでに主催者は面目を失い、フランクフルト市当局も大きな圧力を受けた。しかも10日後にはドイツの総選挙があるので、当局が属する党派は当然事態の深刻さを理解し、票を失わないよう動いた。12日の会議は開始早々から非常に仰々しかった。まずフランクフルト副市長がこの件について立場を明確に表明した。彼女は自身が常に言論の自由を擁護し、いかなる圧力も恐れないと述べた。過去のブックフェアには東欧の異論派作家を招いたし、今後もこの伝統は変えないとし、さらに自身がかつてダライラマを迎えたこともあると自慢した。その後ブックフェアの主催者と主な後援者も次々に態度を表明し、明確に戴晴と貝嶺を歓迎し、自身のそれまでの「軟弱」さを公衆に謝罪し、戴晴と貝嶺をステージの上に招いて意見を発表させた。この「歓迎、自己批判、態度表明」の過程では何度も拍手が起こり、非常に熱烈な雰囲気だった。

 これに最前列に座っていた中国政府側の同僚〔追記:この中には莫言もいたと批判されているが未確認〕はいたたまれなくなったようだ。彼らは本来すでに現実を受け入れ、戴晴と貝嶺が彼らと同じ列に座った時も『環球時報』が流した「ニセ情報」のような、「この二人が出席したので、我々はすぐに席を立った」ということはなかった。だが、会議の席でこれほど明確に戴晴と貝嶺を歓迎し、彼ら中国政府側招待者を脇に追いやったので、確かに彼らは非常に恥をかいた。しかも、会議で事前に配られた議事日程にも確かにこの「歓迎、自己批判、態度表明」プログラムはなかった。そこで、彼らは続々と席を立ち、全員が退場して抗議の意思を示した。彼らの身になって考えたら、政府の代表としては確かにそうせざるを得なかっただろう。だが、主催者の立場に立って考えたら、それまでのほとんど「恥の十字架に磔にされた」恥辱の中で、総選挙間近の時に彼らがこのように「贖罪」しなかったら一体どうなっていただろう?

 だが、幸い我々の政府側同僚はそれほど遠くには行かなかった。ブックフェアの主要な後援者のブースさんが追って行って「謝罪」した後、彼らはすぐに会場に戻り、会議は所定の日程に沿って始まった。私は本当にこのブックフェアの主催者に感心した。彼らはまずメディアに対して中国に「屈服」すべきではなかったと謝り、その後で「中国側」に向かってメディアに「屈服」すべきではなかったと謝ったのだ。まさに「追われたネズミが送風機に逃げ込んだ――両側から風を受ける」〔=いじめられる。中国語の受気と受欺が同音(shou qi)で掛け言葉になっている。〕とか、「猪八戒が鏡をのぞいた――内も外も人でなし」という状態だ。しかし、彼らがこうやって両方に頭を下げたおかげで、これほど対立したシンポジウムを再開させることができたのだ。

 もし事前にこの騒動がなければ、ブックフェアの中のこの活動はこれほど注目を集めなかっただろう。この騒動は広告としての効果大だった。正直言って、戴晴と貝嶺の二人はドイツではそれほど有名ではなかったから、もし事前の予想外のトラブルがなければ、彼らは招待に応じなかったかもしれないし、来てもこれほどのセンセーションは巻き起こらなかっただろう。その点からいえば、二人は「少しの妥協も許されない」と必死に彼らを締め出そうとした趙俊傑一味に感謝すべきだろう。

私の発言

 会議は本来の議事に戻ったが、事前の一幕があったから、その後の発言者、とりわけ「中国側」の発言者はみな本来のテーマを離れてこの騒動について言及し、主に「中国は言論の自由を抑圧している」という類の説に反駁した。たしか張蘊嶺さんは、「彼ら二人にはもちろんここで自分の意見を発表する権利があるが、あなた方は私たちを冷遇して彼らだけを持ち上げるべきではない」と言った。私はその時思った。「彼ら二人には自分の意見を発表する権利がある」? この言葉を国内で言ったら素晴らしいのに! 黄平さんは自分の体験を例に、彼が雑誌『読書』の編集長をしていた14年間、一度も当局からの干渉を受けたことがないと言った。私はそれを聞いて、我が国は本当に進歩したと非常に感動した。だが、黄平さんと同様に編集長をしていた汪暉さんは以前、彼ら二人の間で編集長の地位が入れ替わったのは権力者の小細工があったからだと嘆いていたよね? 二人の編集長の、どちらを信じたらいいんだろう?

 第一ステージの発言者の中では、私だけがさっきの騒ぎに言及しなかった。私は「ドイツ側」の招待だが、「中国側」も招待状を転送してくれたので、私はどちらにも感謝しているが、どちらか一方を弁護するために議論に参加する義務はない。この第一ステージの本来のテーマは「中国の世界における地位:中国の自己認識と世界の中国認識」だったので、私はすぐにこのテーマについて話した。

 私は調査で見聞してきたばかりの中国企業の東南アジアにおける水力発電、鉱山開発などについて、中国企業の労働者権益、ステークホルダー(たとえば土地を収用される地元農民)、地元市民社会に対する態度、および環境保全意識などが確かに同じように現地で開発を行っている西側の企業ほど良くないと話した。ラオスのような政治的背景が我が国と似た国においてもそのように思われている。だが、それを理由に中国企業が「植民地主義」を行っていると攻撃することに対しては、私は全く同意できない。なぜなら事実は、中国企業のステークホルダーに対する対応は先進国の企業より良くないとはいえ、中国企業の中国国内の労働者、土地収用される農民、あら探しをするNGOに対する対応よりずっとましだからだ。国内での彼らのやり方と比べたら、彼らは海外でははるかにましな行動をしている。「植民地主義」ってなんだっけ? それは昔の西側と同じように、自国民の権利は尊重しながら、植民地人民にはひどいことをすることだよね。だが、中国企業は正反対で、海外の投資地民衆に対する「妥協」は西側企業ほど良くないかもしれないが、国内でのやり方に比べたらましだとまず断言できる。この点については実は中国企業が受けている批判によって証明できる。

 多くの人が中国企業は中国から連れてきた出稼ぎ労働者ばかりを使って、地元の人を雇わないと批判する。これはもちろん地元の就業機会を増やすという原則に反するから、批判を受けるのは理解できる。だが私は彼らラオス人に言った。西側企業は当然自国から白人を連れてきて3K労働には使わない。なぜか? それは君たちの就業機会を保証するためか? もちろん違う! それは第一に白人がそういう仕事をしたがらないからで、西側の人間がやりたがらない仕事だから、ラオス人にやらせているんだ。これは「植民地慣行」だ。だが君たちがやりたがらない仕事を、中国企業が中国の「出稼ぎ労働者」にやらせることはどんな「慣行」だろう? もちろん植民地慣行ではないが、「低人権」慣行だ。植民地慣行においては宗主国は自国民の人権は尊重するが外国人の人権は尊重しない。だが、中国の権力者はむしろ反対だ。君たちの権利に対する尊重はまだ不十分かもしれないが、国内のステークホルダーの権利よりはるかに尊重している!

 だから私は中国企業の海外進出に大賛成だ。主な理由は彼らが中国のために金を稼ぐからでも、現地に何か貢献するからでもなく、彼らが海外で基本的人権を学び、それを国内にフィードバックして、中国人の人権状況改善に役立つことを期待するからだ。例えばシナルコ(中国アルミ)がオーストラリアで開発しているアウルクン・ボーキサイト鉱山は、連邦政府とクイーンズランド州政府の積極的な後押しにもかかわらず、1年半もの時間を地元のごく少数の原住民との土地借用問題の話し合いに使わざるを得なかった。これが国内だったら彼らにこんな辛抱強さがあるだろうか? シナルコの「平等な対応」はオーストラリアの地元では好評だったが、中国国内ではこの「模範例」を宣伝することができない。今でさえ国外の「組合の落し穴」〔労働争議〕に中国企業は頭を痛めているのに、もし「アウルクンの経験」が国内に伝わって、「五千年の文明」をもつ中国農民がオーストラリアの小さな「未開部族」の真似をして、政府の支援を受けた「ジョーズ」に対して法外な補償請求をしだしたらえらいことだ!

「偏見」について考えた

 全体的に見れば、私は今回の会議で中国の進歩を感じた。曲折はあったが、結局のところ戴晴たちの参加を認めたからだ。「14年間の自主発刊で干渉を受けたことはない」というのが事実かどうかは知らないが、少なくとも我々の政府側同僚はそうあるべきだと思っている。我々の政府側同僚は中国にはすでに言論の自由があると言っていたが、彼らのお話しがだんだんと現実になるよう願いたいものだ。我々の同僚の多くも中国は「縦方向〔時間軸〕では進歩しているが、横方向〔他国との比較〕ではまだ格差がある」事を認めていた。格差を認識できれば、前進の可能性が生まれる。

 ただ、なぜ我々の政府側同僚はここの政府や会社(主催者)とは仲良くできるのに、ここのメディアとはこれほど対立するのだろう?

 それはイデオロギーが言うように、西側メディアは金銭にコントロールされた資本家オーナーの代弁者だからだろうか? だとしたら「オーナーの代弁者」の憎むべきは「オーナー」が憎むべきだからじゃないだろうか? それなのになぜ我々は「オーナー」自身にはむしろ好意的なのだろう?

 それはドイツメディアが「ニセ情報」や「でっち上げ」をばら撒いたからだろうか? だが今回の騒動に関しては、公平に見れば、我々の『環球時報』がばら撒いた「ニセ情報」、とりわけ「中国側」に不利な「ニセ情報」の方が多かったじゃないか?

 それはドイツメディアが中国に「偏見」を持っているからだろうか? 確かにそうだ。しかも、西側メディアのある種の「偏見」は「植民地主義慣行」に確かに関係している。なぜなら「植民地慣行」は前に言ったように、自分の同胞を外人より優遇すること、あるいは外人に対しては同胞に対するより冷たく当たることだからだ。西側の人は昔は確かにそういう問題があったし、今でも完全に改まったわけではない。彼らはそのような目で我々を見ている。例えば「少しの妥協もなく」戴晴さんを締め出した例の人を見て、同胞に対して敵意に満ちているのを見ると、「彼らは自分の同胞に対してさえこんなにひどい対応をするんだから、もし彼らが強大になったら、我々外人に対しては一体どれほどひどいことをするだろう?」と思わずにはいられないだろう。実を言うと、いわゆる「中国脅威論」は虚実ないまぜになった事例だけでなく、むしろこのような心理的「偏見」から出てくるのだ。

 もちろん我々は彼らを説得できる。我々は君たちとは反対で、我々の「文化」は同胞に対してより外人に対してやさしい、もしくは同胞に対しては外人に対するより冷たいんだ。我々は戴晴には話しをさせないが、君たちの発言を禁止することはないから、君たちの偏見で我々を見てはいけないよ。だが、我々のこの広大で深遠な「文化」は、彼らのような野蛮人には理解できないだろう。だからといってそれに憤慨したら、なおさら彼ら野蛮人を怯えさせてしまい、彼らの「偏見」をもっと強めることになるだろう。

 ぶちまけて言おう。我々が相手のメディアに憤慨して何になるんだ? 極端にいえば、相手の政府に憤慨するんだったら、断交したり宣戦したりできるし、相手のオーナーに憤慨するんだったら貿易制裁をすることもできるが、相手のメディアが我々に何か言ったからといって、彼らをどうにかできるだろうか? もし我々が報道を世界中に開放しているのであれば、かつてマードックが希望したように彼らは中国に来て発行し、市場シェアを拡大させるために我々の意に沿った報道をするかもしれない。いま中国は彼らの進出を全く許さないから、彼らは完全に我々以外の人々を客としているのに、何で我々の憤慨を気にするだろう? 我々は自分たちのメディアに対し威張り散らし、審査し、首を切り、停刊させ、廃業させることもできるが、外国のメディアに対して何ができるだろう? 彼らの報道を検閲できるか? 停刊させられるか? 外国メディアは自国の政府でさえ恐れないのに、なんで我々の憤慨を気にするんだ? ちょっときつい言い方をすれば、我々の憤慨は、只で彼らの宣伝をしてやっているようなものじゃないか?

 だから、我々が憤慨しても何の役にも立たない。理にかなった方法は、我々の行動で徐々に彼らの偏見を取り除くことだ。外人に対してやさしくするだけでなく(これを実行するのは難しくはないだろう)、自分の同胞にもやさしくし、同胞の人権も尊重することだ。我々はそれを自分たちの「内政」に過ぎないと考えてはいけない。「内政」は政府に対してだけ言えることで、メディアと世論には通用しない。それはちょうど我々が米国に行って米国政府に代わって資本主義を廃絶することはできないが、我々のメディアは「資本主義の罪悪」を攻撃できるのと同じことだ。外国の政府は我々の「内政」に手出しできないが、外国のメディアが我々のやり方に「とやかく言う」ことについては、我々も外国政府も手出しできない。

 だがはっきりと言えることは、報道の真実性と公正性がメディアの命である以上、そういう要求があるのは当然だが、実際には人の価値選好は客観的に存在する以上、「偏見」というものを完全に避けることは難しい。しかもそれは報道の自由の有無とは関係がない。統制されたメディアには偏見があり、自由なメディアにも同様に偏見がある。報道の自由は「偏見の一元化」を防ぐことができるに過ぎない。こちらへの「偏り」はいいがあちらへの「偏り」はだめとか、自分の「偏り」はいいが相手の「偏り」は認めないという状況の出現を防止できるだけだ。つまり特定の一面的な、操られたないし動員された「偏見」が全社会のヒステリーを誘発するのを防ぐのだ。「偏見」が多元化すれば、多様な意見を聞いて確かなことを知ることが可能になり、読者・視聴者は様々な「偏見」を比較する中で真実を探し出すことができる。「偏見」が競争化すれば、「偏見」が少なくより信頼性のあるメディアが勝ち抜き、信頼のない「偏見」だけのメディアは淘汰されていくだろう。

 だから、我々は具体的な虚偽報道は当然正し、うそに尾ひれがつくのを防がなければならないが、「偏見」の存在する現実に対しては平常心を持たなければならない。我々が自分たちの仕事をきちんとやりさえすれば、我々に対する「偏見」は必ず徐々に減少してゆく。もしくは多元化の中で「親中偏見」と「反中偏見」のバランス状態が実現する。もしわれわれが自信を持って報道の自由とメディア市場の開放を実現すれば、外国メディアはたぶん中国の読者・視聴者の好みに答えるために中国の読者・視聴者が反感を抱くような偏見を自制するだろう。だから私は今回のシンポジウムの席で我々の政府側同僚が戴晴、貝嶺と同じ部屋で議論し、「少しの妥協もせず」に「異論派」を締め出すという趙俊傑式の主張を否定したことが非常にうれしい。もし国内でもそうできるなら、我々の進歩はどんな「偏見」によっても隠すことができなくなるだろう。

(転載自由、要出典明記)

原文出典:http://www.canyu.org/n9538c6.aspx

フランクフルト・ブックフェアには廖亦武も招かれていたが、中国当局に妨害されて出国できなかった。
参照:http://www.dw-world.de/dw/article/0,,4723222,00.html

秦暉に興味のある方は10月1日と10月17日に神戸で講演、10月19日には東京で討論会もあります。(追記:19日は秦暉不参加に)
10月1日 テーマ「中華人民共和国60年の回顧と展望」
詳細:http://www.toho-shoten.co.jp/toho/saiji09-049.html
10月17日 テーマ「南アフリカから見た中国」
詳細:http://docs.google.com/gview?a=v&q=cache:PJ4Z5tK8FyAJ:wwwsoc.nii.ac.jp/jamcs/p2009.pdf+%E7%A7%A6%E6%9A%89&hl=ja&gl=jp&sig=AFQjCNGLA1LPHbkZYymIzf-4Vf_TYFENaA
10月19日 テーマ「ポスト『改革開放30年』をどう展望するか」⇒秦暉不参加
詳細:http://globalcoe-glope2.jp/modules/piCal/index.php?smode=Daily&action=View&event_id=0000000154&caldate=2009-8-1

 
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