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秦暉:「低人権の優位性」が中国の脅威的競争力を生み出した(1)

2009-10-23 11:11:17 | 中国異論派選訳
秦暉:「低人権の優位性」が中国の驚異的競争力を生み出した

原文出典:http://vip.bokee.com/20080709569025.html
2008年7月9日ネット掲載

清華大学歴史学部の秦暉教授インタビュー

『南風窓』記者 熊培雲

疑いもなく、ここ30年の中国の経済と社会の成長は、中国人の価値観の転換をもたらしただけでなく、中国社会の「交渉力」の増強ももたらした。同時に、世に言われる「中国の奇跡」の背後に一体どんな「取引費用」に関する行動論理が隠れているのかを、今日は歴史的視点からもう一度見直してみたい。

そのために、本誌は清華大学歴史学部の秦暉教授にインタビューした。

●一方的価格決定

『南風窓』:中国で「経済の奇跡」が起こったことに対する政府の貢献は無視できません。政府が演じている役割の中で、どの部分が見直しを迫られているのでしょうか?

秦暉:一部の経済学者は国家権力が労働者の価格交渉権を奪っていることを「『取引費用』の低減」とはやし立てています。私はこの種の「取引費用」には括弧を付けています。なぜならそれは近代経済学で言う「取引費用」とは全く別物だからです。
ロナルド・コース〔Ronald H. Coase〕が言うように、取引費用には二つの重要な原則があります。第一に、相手方の価格交渉権を奪ってはならず、価格交渉権を前提に集団交渉をすることによって、分散交渉によって生じる費用を避けることができます。例えばコースはなぜ企業が必要なのかについて、こう説明しています。一般に全ての労働者が企業に雇われるのではなく個人事業者になる能力も権利もあるのに、なぜ直接消費者と向かい合わないのかというと、理由は取引費用が高すぎるからです。企業は取引費用を節約する組織であり、だから大多数の人が企業に入りたがるのだと言っています。ですが、コースは農奴制の荘園を作ることで取引費用を節約できるなどとは決して言っていません。ところが、一部の中国の経済学者の論理では、価格交渉がないことが取引費用の節約とされているのです。
第二に、コースの言う取引費用とは社会全体のコストであり、一方的で強制に近い価格決定のことではありません。
 コースの書いた二冊にはとてもいい題名が付いています。一冊は『企業の性質』〔原題The Nature of the Firm、1937年の雑誌論文〕です。ただ、中国の一部の人の理解は「奴隷制の性質」と言うべきで「企業の性質」ではありません。彼らの認識では、企業が取引費用を低減させる組織であるとすれば、奴隷制の方がより合致しているということになってしまいます。明らかにコースはそうは考えていません。なぜならコースの言う費用とは取引の権利を保障すること(つまりそれが企業と奴隷農園の違いですが)を前提とするのに対し、奴隷制は多くの人の取引の権利を奪うからです。二冊目は『社会的費用の問題』〔The Problem of Social Cost, 1960〕です。彼はなぜ「一方的価格決定の問題」と言わずに「社会的費用の問題」と言ったのでしょう? 我が国の一部の理論家の言う「費用」とは実は相手方がどんな犠牲を払おうと構わずに、一方的に価格を決定してしまうということで、明らかにコースの考えとは違います。
 私はコースの説が絶対に正しくて、いわゆる「新自由主義」が理論的に問題がないと言いたいのではなく、中国がやっていることは全くそれとは別物だと言うのです。中国の問題は西側の経済学者に責任を負わせることはできませんし、新自由主義とも何ら関係ありません。ただ、中国の奇跡が価格交渉の余地のないメカニズムから恩恵を受けていることは確かです。
 このような一方的に価格決定をして「取引費用」を節約するというやり方は一種の強盗の論理です。ナイフを使って巻き上げることを費用の低減と言う人がいるでしょうか? ですが、このやり方が中国では非常に流行っているのです。例えば、ある人は集団化は優れた選択だったと言います。なぜなら、国が無数の農家と交渉すると費用が高くなりますが、国が全員をまとめて縛りあげたら、彼らは値段交渉できなくなって、取引費用が少なくなります。国はそれによって大量の安い食料を手に入れましたが、それによってどれほど多くの農民が餓死したでしょう〔大躍進のことを指している〕? それは費用に含まれないのでしょうか? 彼らはそれを費用とはみなさず、「国家と農家の取引費用の減少」という概念を製造しました。なぜ「農家と国家のゲームのコスト」ではないのでしょうか? この概念はコースの理論から見たら全く筋が通りません。またある論理は国が労働者を追い出し易いほど、いわゆる「取引費用」が低くなると言います。もし本当の費用なら、人民公社時代の費用が最も高いでしょう。工業化時代にこれほど多くの人を餓死させるという法外な費用を払った国が他にあるでしょうか?

『南風窓』:国家が「資本家」になって、「国家の被用者」であるもう一方の労働者側は自分の権利と能力に関する「交渉権」を失いましたね。

秦暉:公共財産は理論的にいえば全ての人が所有者であると言えるし、また誰も所有者ではないとも言えます。それは主人と雇われ人の関係ではありません。民間企業が労働者を解雇することは、近代国家では当然労働法の制約を受けますが、雇用関係からいえば、労働者を解雇することは当然のことです。企業は経営者が興し、経営者が資産に対するリスクを負っており、破産したら経営者は飛び降り自殺するかも知れません。契約も双方同意のもとで結んだものです。ところが、国有企業の工場長と労働者の地位は本来同じはずなのに、何を根拠に一部の人を追い出すのでしょう? 何を根拠に一部の人が犠牲にされるのでしょう? 何を根拠に一部の人が辣腕家とみなされ、他の人は能力を試すチャンスさえも与えられないのでしょうか?
 中国と比較すると、東欧諸国の民営化の価格交渉費用は高かったです。大体が急いで民営化し、どれくらいの労働者を削減するかは民営化後に経営側と労働側双方の交渉で決めており、国家が権力を使って削減したり、資産を特定の人に渡したりすることはありませんでした。いわゆる資本回収最大化の原則とは、公開・公正・国民参加の原則、もしくは証券民営化と同様、一人一株であり、事前に労働者を追い出すことは考慮の外です。もちろん移行が完了したあとの労使双方の交渉はまた別の話しですし、それには労働組合が関与しました。先に追い出すべき労働者を追い出してから、残った労働者の雇用にのみ責任を負うというのではないし、ましてや政府と辣腕家との間の闇取引で決まったのでもありませんでした。

『南風窓』:数年前、私は社会学者の陸学芸さんのインタビューをしました。彼も市長たちの「人員削減による増収」についてのおしゃべりを、政府がまず保障すべきは十分な雇用だと批判していました。

秦暉:ですから私は「人員削減による増収」から民営化に至る過程は故意に選択された手順だったのではないかと疑っています。当初国家権力を使って「人員削減による増収」を図ったのは民営化のための準備のつもりだったかもしれません。民間企業になってからは「人員削減による増収」は問題になりません。なぜなら民間企業なったときには過剰雇用はないからです。国は意図的に財産権改革の前に「人員削減による増収」をやったようです。もちろんそれはイデオロギーリスク〔資本家対労働者という対立構図〕を避ける意図だったともいえますが、国家権力を使って労働者を追い出すことができたわけです。労働者は資本家とは価格交渉できますが、国家とは価格交渉できません。なぜなら中国の労働組合は国営だからです。この種の労働組合は労働者と私企業との間では一定の役割を発揮できるでしょうが、国有企業と労働者の間だと明らかに国家の肩を持ちます。

『南風窓』:以前は労働組合は「福利組合」で「権利組合」ではないと言われていました。しかし、その「福利」の二字もだいぶ前から割り引かれていたわけですね。

秦暉:そうです。中国は前々からマイナス福祉国家であり、今でもそうです。中国の進歩はマイナス福祉の下降に示されます。つまり「ゼロ福祉」に徐々に近づいていくことであり、せいぜい所得再配分が社会格差を助長しないようにすることに過ぎません。現在は大抵が高所得者高福祉、低所得者低福祉です。このような福祉配分は、価格交渉権の剥奪を反映しています。

●尺取虫効果

『南風窓』:少し前、あなたは論文の中で再び「尺取虫効果」について言及しておられました。普通は、左派が福祉を要求し、右派が自由を要求する。左右のせめぎ合いによりいわゆる「バランス効果」が生ずると言われています。しかし、「尺取虫効果」の下では、「バランス」をどうするかは権力集団の利益によって決まります。

秦暉:近年改革政策、ないし改革戦略は調整されなかったのではなく、むしろ世界的にも珍しいほど頻繁に調整されてきました。しかし、どう調整してもうまくいかない、それがいわゆる「尺取虫効果」です。伸びたり縮んだりしながら一つの方向にだけ動く尺取虫のように、政策が「左」に向くと庶民の自由が減少する一方で福祉は増加せず、政策が「右」に向くと庶民の福祉は縮小するのに自由は拡大しない。「小さな政府」を言いだすと官僚は責任を回避するのに、権力は依然として制限されず、「大きな政府」を言いだすと官僚は権力を拡大するのに、責任は相変わらず追及できない。右に向かえば、公共財産は急速に「流失」するのに、庶民の私有財産は少しも保障されず、左に向かえば、庶民の私有財産は侵害されるのに、公共財産は依然として失われ続ける。

『南風窓』:株式市場がまるでスーパーキャッシュディスペンサーになったかのように、一部の人が株価操作によって金を引き出し続けています。

秦暉:中には、どっちにしたって国有企業には限りがあるから、むしり尽せば〔民営化してしまえば〕おしまいになる。災難と言おうが腐敗と言おうが、どのみち儲ける人は出てくるんだから仕方がない、と言う人もいます。権力者がもし今回の民営化が終わったら、もう国有化はしないと言うなら、つまり国有資産はもう増やさないと言うならまだいいでしょう。しかし、権力者はそんな約束をしたことはありません。一部の人が国有財産をむしりつくし、その後で再び庶民の財産を国有化し、一方で国有化一方で民営化、どちらもやり続けるでしょう! こうして中国の国有財産は終わることなくむしられ続け、しかもそれがますます多くなっていくでしょう。
 「郎旋風」〔郎咸平(香港中文大学教授)が2004年に国有企業民営化が国有財産の着服による喪失をもたらしていると指摘し、大議論を巻き起こしたことを指す〕の後中国はいわゆる「新自由主義」に反対し、一時あたかも風が「左」に向きかけ、民間資本を排除する「新国有化」や国有独占業種を指定する「大きな政府」政策が次々と登場しました。しかしそれと同時に、新しく登場した「株式制度改革」では本質的に「国有株をタダで人に譲る」かのような民営化方式が採用され、「右」の程度は「郎旋風」前の全ての国有株式削減案をはるかに上回るものでした。それを呉敬さんが少し批判したら、たちまち罵声を浴びました。また、近年は国有企業の「救済上場」〔赤字解消のための上場。原文「圏銭解困」、90年代末に行われた〕のおかげで長い間下げ相場が続き、高値につられて参入した多くの個人株主はひどく苦しみました。もし当時国有企業改革前に政府が急いで上場するようなことをしなければ、あれほど多くの人が食い物にされることはなかったでしょう。株式指数が2300台から900台に下落し、大多数の小口個人株主が損を抱えて退場し、大株主が底値を探っている時に、「国有株無料進呈」の改革が大挙して登場し、底値買いの大株主に正味価格3,000億元の富を贈呈したんです! この尺取虫のような、締めたり緩めたりによって、国有財産も手放され、小口個人株主も損をし、ただコネのある投資家だけが両方から甘い汁を吸って、「国有化」と「民営化」のうまみを堪能しました。
 同様に、土地の面では、今日は都市化の加速を強調し、大規模に農民の土地を奪って「土地囲い込みによる街づくり」が行われます。しかし、農民は都市に行っても平等な待遇は受けられません。そして明日になると都市化の抑制と「農村の復興」が掲げられ、農民の移転の自由権が制限され取り消されますが、政府は依然として農民の土地を囲い込んで奪い続けます。今日は土地が欠乏しているから「耕地を保全」しなければならないと言って、「小規模財産権」を攻撃し、農民の土地譲渡を厳禁しますが、政府は依然として「強制収用」を続けます。明日になるとまた土地は余っているから開発してもいいと言い出し、政府が大規模な土地囲い込みを始めますが、依然として農民には土地の市場化を認めません……このような体制の下ではたとえ政策立案者が善意であったとしても、実施してみれば「権勢のある人の一人勝ち」のパターンは免れないだろう。

『南風窓』:普段私たちは「国退民進」〔国が退いて民間が伸びる〕が中国の移行の基本的な筋道だと言っていますが、主流イデオロギーと政治実務においては、やはり「国富論」には力が入りますが、「民富論」はあまりやりません。であれば、中国企業の成長は国と民間の進退と富の移転において一体どのような役割を果たしているのでしょう?

秦暉:思いますに、企業はもし国が民主・自由を推進しなければ、政策が左でも右でも駄目でしょう。左寄りがいいのか、右寄りがいいのか、もしくは大きな政府がいいのか、小さな政府がいいのか何とも言えないと言うのが今の状態です。中国は自由・民主の方向に進んで初めて問題解決が可能になります。そうしなければ、私が言った「尺取虫効果」で、国進民退であれ、国退民進であれ、富は一般庶民のポケットには流れて行きません。よりひどいことに、一部の人が言うように民営化プロセスは「一回で完了」するのではなく、時が来たら上述の「国有化」と「民営化」がまた繰り返されるでしょう。

『南風窓』:しかし今我が国の政府が1年で使う金は3.7億人の都市住民、12.3億人の農民が1年で使う金に相当しています。政府の財政収入は民間可処分所得総額の約半分と同じです。

秦暉:ですから、国有化を止められないのであれば、どうして国有財産を自分のポケットに入れてしまう人々に我々は反対しないのでしょう? どうしてこういうやり方がより悪い結果をもたらさないと言うのでしょう? しかも、この種の〔国有財産の侵奪〕行為は自己強化し、「国有化-民営化」の積極性を一層強め、ついには国が得るものが多いほど庶民が奪われるものが多いということになります。
 目下のところ多くの人が改革の成果は分かち合われていると言っていますが、どの国でも「分かち合い」は勝ち取られるものです。私は急進主義者ではありませんし、中国の問題が一気に解決するとも考えていませんが、「党内民主」もしくは「末端民主」という言い方には大いに反対です。改革の道筋は根本的にそのように考えるべきではありません。それは下から上へとか、上から下へという問題ではないし、党内から党外へとか、党外から党内へという問題でもありません。実際は中国では二つの方法は皆同じです。私が言いたいのは、実際はこの〔民主化〕プロセスは、私の言葉でいえば「自由のための制限」と「福祉のための責任」の双方向の漸進プロセスです。一方で、我々はたとえ許される範囲内での批判であったとしても、絶えず権力の逸脱を批判することです。我々がたえず圧力を加えれば、また権力拡大に口実を提供しなければ、全体としては、権力に対する制限が強まることになり、一足飛びでないにしても良くなっていきます。それと同時に、政府がすべきこと、尽くすべき責任を全うするよう要求することです。中国では政府に対してたとえ揺りかごから墓場までの福祉を要求したとしてもそれは当然です。なぜなら政府の権力は制限を受けていないからです。政府が自らの権力の制限を認めない以上、我々もその責任が無限であると考えることができます。言い換えれば、政府が我々の責任追及を規制しようとするなら、我々も政府の権力を規制するよう要求するのです。

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