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秦暉:「第三の道」か、それとも共通のベースラインか?(五)

2010-02-22 00:10:46 | 中国異論派選訳

 しかし西側の市民社会の実質的な意味での自由主義と社会民主主義の対立が、新しい条件の下で希薄化している今になっも、私たちの非市民社会、プレ自由秩序の下では本来「別個に進んで、共に撃つ」べき自由主義と社会民主主義の間の同盟は実現していない。それどころかいわゆる「自由主義と新左派」の争いはますます激しくなっている。これは非常に興味深いことだ。

 実は今日の中国の社会の現実と問題状況の下においては、自由主義とギデンズのような「新左派」もしくは「第三の道」(前にのべたように、これは実際には社会民主主義の自由主義化である)の間の対立などあり得ない。自由主義と古典的社会民主主義「旧左派」(エンゲルス、プレハーノフから社会主義インターナショナルまで)でさえ、少なくとも自由秩序が実現するまでは対立の可能性などあり得ない。今のスペイン国民党でさえ労働組合を尊重することを知っているのだから、今の中国では本当の自由主義者なら当然労働者の結社の自由の守護者になるはずだ〔なぜなら今の中国に労働者の結社の自由はないから〕。かつてプレハーノフでさえ「『自由主義者が獲得しようと努力している』『抽象的権利』こそ、人民の成長に必要な条件である」と主張していたのだから、今の中国で本当の社会民主主義者なら普遍的人権を実現することに躊躇などしないはずだ。

 しかし問題は、今の中国の思想分化は一方で権威主義と自由主義の対立の枠組みを脱していないこと、もう一方で「ストルイピン式改革症候群」の背景のもとで寡頭主義の自由主義(主に経済的自由主義)に対する歪曲と警察ポピュリズムのいわゆる「自由左翼」潮流に対する統制が出現していることだ。そして中国では、寡頭主義による社会民主主義(ないし自由主義自体)に対する抑圧(労働者の正当性ある「公益広告」を奪うことは「仕切り直しにすぎない」と公然と主張する連中を代表例とする)と、警察ポピュリズムによる自由主義(ないし社会民主主義自体)に対する抑圧(プレ警察体制の改革を主張する「再文革」派を代表例とする)がどちらも勢力を拡張している。そして興味深いことに、寡頭主義と警察ポピュリズムの間には基本的に論争がないのだ。
  
 明らかにこのような中国の思想分化と今日の西側の「自由主義と(ギデンズ式の)新左派」の分岐とは全く異なるし、かつての自由主義と社会党員旧左派の分岐とも同日の談ではない。根本的な違いは、自由主義と市民社会における現代左派(新旧を問わず、また「新左派」はとりわけ)の分岐は上述の共通のベースラインを前提にした分岐であるということだ。そのベースラインとは自由・民主、個性の解放、普遍的人権〔基本的人権〕と手続的正義の承認である。それは正統派マルクス主義の言説によれば「資本主義」は「封建主義」に勝り、自由民主は専制独裁に勝り、「抽象的権利」は無権利に勝り、「手続的正義」は「超経済的強制」に勝るということである。また、ギデンズの言葉を借りれば、「自由市場の哲学」と「社会(民主)主義」はどちらも左派の歴史的源流であり、どちらも個性解放の性質があり、どちらも反「伝統」と「永続革命」の色彩があるのだ。

 私たちの中国の寡頭主義と警察ポピュリズムはどちらもこの共通のベースラインに反している。反対にそれらは全く別の共通の基礎をもっている。かつて反自由主義の考え方で「私有財産の国有化」を行ったポピュリズム権力こそ、今日反民主主義の考え方で「国有財産の私有化」を行っている寡頭主義権力なのだ。かつてそれ〔共産党〕は国民の私有財産ないし一切の市生活領域に対して「公共選択」を実施したが、いまそれはふたたび公的経済資源、公共財とその他の公共分野について大々的に「相対取引」〔市場外での裏取引〕を行っている。過去の「反競争のニセ公平」と、今日の「不公平なニセ競争」は、どちらもこのポピュリズム=寡頭主義を基礎とした産物ではないだろうか? この基礎は過去〔毛沢東時代〕において決して社会民主主義ではなかった。それは最も「右」の自由主義(前述のスペイン国民党、それは少なくとも労働者の自主的な組合結成の権利を認める)よりもはるかに社会民主主義に遠い。この基礎は現在〔改革開放以降〕でも自由主義ではない。それは最も「左」の社会民主主義(前述のスウェーデン社会民主党、それは少なくとも言論の自由は認める)よりもはるかに自由主義に遠い。したがって、本当の社会民主主義者なら過去を反省するという理由で今日の「不公平なニセ競争」を認めることはありえない。私はかつて、今日の中国(今日の西側ではない)の条件のもとでは、自由主義に反対するだけの人は社会民主主義者ではなく、社会民主主義に反対するだけの人も自由主義者ではないと言った。今日の中国の自由主義は寡頭主義と決別しなければならず、社会民主主義はポピュリズムと決別しなければならない。今日の中国の「問題」が呼び起こす「主義」は自由主義と社会民主主義の共通のベースライン、つまりギデンズの言う「急進的な中間派」の立場であるはずだ。しかし中国では、このような立場は「第三の道」というより、自由主義と社会民主主義の二つの「道」の重なり合いであり、それらの「間の」もしくは「外の」道ではない。

 今日の中国では、自由主義の旗を振って寡頭主義を主張する人がいて、しかもその人数は多い。だが、本当に共通のベースラインを守っている自由主義者(それはいわゆる新左派ではない)は、これに対して最も早く最も断固として反対している。彼らは公正の至上性を主張し、原始的蓄積〔農民の搾取〕と有力者による私有化に反対し、「獲得における正義・移転における正義・矯正的正義」を基礎とした公平な競争の市場経済を支持し、民主化を通じて財産権改革の中の「売り手の不在」と「管理者取引」の問題〔民営化過程において真正の所有者である国民を排除して管理者である役人が同じ役人に自己取引により低価格で売り払うこと〕を解決することを強調し、それによって「料理人が料理を独占する行為」や「盗んだ金で取引をする行為」を阻止し、出発点の公平とルールの公平原則の下で市場経済への移行を実現することを目指した。要するに、彼らは民主的条件のもとで出発点の平等から公平な競争に向かうこと、「獲得における正義」から「移転における正義」に向かうことを希望し、独裁状態の下で「有力者の一人勝ち」から「勝者の一人占め」に向かうことに反対し、さらに改革プロセスが「不公平なニセ競争」と「反競争のニセ公平」の悪循環に陥ることに反対しているのだ。

しかしこれに対して、新左派もしくは「自由左翼」の旗を掲げた警察ポピュリストは、ほとんど誰も社会民主主義の立場からこれ〔警察ポピュリズムと寡頭政〕と一線を画そうとはしなかった。これもいわば歴史的原因がある。中国近代史においては、社会民主主義の伝統は自由主義の伝統より希薄である。中華民国時代、社会民主主義の訴えは自由主義者によって表明された(その表明方法を私たちは今日まねる必要はないが、その精神は発揚されるべきである)。そして「左派」は中国歴代の「農民戦争」とロシア・ナロードニキ主義=スターリン主義の二重の影響を受けた強大な警察ポピュリストの伝統に起源をもつ。これらの伝統の社会民主主義思想に対する破壊は、どんな「右派」よりもひどかったと言える。それは、スターリンがかつて社会民主党が「最も危険な敵」と言ったこと〔主要打撃論〕や、中国の「ソビエト区」〔共産党支配地区〕で行われた「社会民主主義者」大量殺害の大粛清を見るだけで、容易に知ることができる。今日においても、社会民主主義的要素の欠如は中国の新左派もしくは「自由左翼」を含む「左派」の大きな欠陥である。最近一部の新左派の学者はギデンズ式の西側「新左派」や、彼の『第三の道』を大いに持ち上げているが、それを見るとまるでこの本が共通のベースラインや自由主義化した「ニューレイバー」理念の論証ではなく、逆に共通のベースラインを破壊する、自由主義からも社会民主主義からも逸脱した、警察ポピュリズムの「道」の立論であるかのようだ!

 ギデンズ式の「新」左派と言わず、過去の労働党よりもっと自由主義化した「第三の道」と言わず、中国の「左派」に少しでも社会民主主義意識があれば、「マクドナルド〔初代労働党出身首相〕社会主義」時代の労働党「旧左派」であれ、古典的社会民主主義の「第一の道」であれ、誰一人として「文化大革命」・人民公社・「鞍鋼憲法」の類のものをほめたたえたり、東欧の民主化を呪ったりしないだろうし、彼らと自由主義者の間の論争もほとんど起こらなかっただろう。

こう見てくると、過去に人々が「中国式の新左派」は西洋思想を取り入れても消化できず、南では甘い実をつけるミカンの木も北に移植したらカラタチのような渋い実しかつけないように、風土に合わないのだ、と評したことは必ずしも適切ではない。もし彼らが本当に社会民主主義という洋物を食べて、ギデンズ式の左派の果実を得られるのなら良いのだが、残念ながら彼らは実際は魚眼を真珠と言いくるめ、カラタチをミカンと偽っているようなのだ。

出典:http://www.chinese-thought.org/jz/003080.htm

(転載自由、要出典明記)

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