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秦暉:「第三の道」か、それとも共通のベースラインか?(完)

2010-02-22 22:04:37 | 中国異論派選訳


 『第三の道』は明らかに「ニューレイバー」の自由主義化を意味しており、「社会主義」・「保守主義」・「権威主義」・自由主義の四象限分析において論理的に可能な6つの対立は今ではすべて自由主義に有利な方向に進んでいる。だが、それは決して「歴史の終わり」を意味せず、自由主義が今後厳しい挑戦を受けることはないということを意味するのでも、社会民主主義がこれによって同化され消えてしまうことを意味するのでもない。

 人間性の中には「安全」のために自由を犠牲にし、束縛と引き換えに保護を求める一面もある。冷戦後の世界は危険な現象を消し去ったのではないから、人々の「自由からの逃走」の可能性を消し去ることはできない。

 長い間、結果の平等の「理想社会」が西側左派が市場競争制度の不公正を非難するときの主な理由だった。近年現実の社会主義体制の失敗に伴い、この種の非難は勢いを失った。それに取って代わったのは公平な競争の視点からの資本主義批判である。その一つは、自由競争の結果自然独占が生じ、公平な競争を妨げるので、極端な場合にはブローデルが言うように資本主義は反市場経済的になってしまうとみなす。もう一つは、自由競争は「勝者の一人占め」を招くが、勝者が多く得るならまだしも、「勝者の一人占め」は不合理だと批判する。そしてルールを改めて、勝者の取り分を少し減らして、敗者も食べられるようにすべきだ(すなわち最低保障)と主張する。第三に、「公正なプロセス」は遡及に耐えられるか?ということだ。伝統的私有制の下での「所有の連鎖」はすでに千年以上続いているが、誰がその一つ一つがノージックの「獲得における正義」と「移転における正義」に適合していると言えるだろう? とりわけ「最初の獲得」が正義であるかどうかをどう認定し、「矯正的正義」をどう把握するのか?

 このいくつかの追及は理不尽とは言えない。だからこれまでの追及者が実行可能な解決方法を提示できてはいない(なぜなら古典的自由主義が論破されたわけではないから)にもかかわらず、これらの追及は永遠に存在し続けるだろう(なぜなら社会民主主義は決して論破されたわけではないから)。

 現代の西側の左派運動もしくは社会民主主義運動は反省期にあり、ギデンズを代表とする自由主義化が唯一の探求というわけではない。自由秩序・市場経済・民主国家とグローバル化は決して欠点がないわけではないから、これらのプロセスにおいても歴史が「終わる」ことはありえないし、西側社会の左派運動と批判思潮が終わることもありえない。ギデンズの本の中の「福祉社会」構想・「教育と訓練」スローガン・「社会投資型国家」の主張、および彼の「家庭の民主化」・「世界的な民主化」・「グローバルな市民社会」の主張も、「ニューレイバー」の自由主義化と同時に左派の批判的伝統を保持しようとする努力を示している。

 しかし指摘しておかなくてはならないのは、これらの見解は「旧左派」や「新右派」と異なる「第三の道」を作るにはまだほど遠いということだ。数年前、いわゆる「福祉国家でもなく、自由放任でもない」という「オランダモデル」が注目を集め、多くの社会民主主義者がそれを福祉国家の苦境を抜け出す「中道左派」の選択肢とみなした。しかしギデンズ自身の「オランダモデル」に対する分析(同127~128ページ)によると、ヨーロッパの社会民主主義者はいま票は獲得しているが、彼らの新モデルはまだまだできてない。

 しかも、もしそれができたとしても、それは彼らの問題解決の「道」であり、私たちに適しているとは限らない。今日ブレアは彼の「第三の道」は「福祉国家でもなく、自由放任でもない」と言明しているが、それは彼らの福祉国家と自由放任がどちらもかつて行き過ぎたからである。だが私たちの中国のような大多数の人(〔戸籍身分上の〕農民)に社会保障が全くなく、同時に自由も非常に少ない(「農民工〔出稼ぎ労働者〕の整理」の様相を見よ!)国で、「より多くの福祉国家、より多くの自由放任」の道を進むべきでないのだろうか? ブレア、ギデンズの探求は貴重なものだが、私たちは真似ることはできない。

 西側の伝統では、古典的自由主義者は「小さな政府、大きな社会」を主張し、社会民主主義者は伝統的に民主国家の社会保障の責任の重要性を強調することが多かった。だが後者は決して国家(政府)権力が制約を受けないということを意味するのでは決してない。それどころか、マルクス派もラサール派も社会民主主義は伝統的に国家権力に懐疑的で、国家権力の消滅を理想としていた。自由主義の「小さな政府」は国家権力について言っているが、社会民主主義の「大きな政府」は国家の責任について言っているのだ。形式論理的には両者は直接対立するものではない。だが民主的法治社会では、国家権力と国家責任は社会契約の上で一致する。市民が政府により多くの責任を負わせることを希望すれば、政府にその分の権力を付与しなければならない。権力の小さな政府は責任も小さく、責任の大きな政府は当然より大きな権力が必要になる。そこでは、自由主義の「小さな政府」と社会民主主義の「大きな政府」の対立が成立する。

 だが非民主的非法治社会では、統治権力は被治者から授与されたものではない。社会契約がなく、国家権力と責任が対応していないという状況の下では、この両者は必ずしも対立しない。もし国家権力が大きすぎて責任が小さすぎるなら、国家権力の制限を要求する「自由主義」の主張と、国家に対しより大きな責任を負担するよう要求する「社会民主主義」の主張は同時に成立する。逆もまた同様だ。

 一部の移行中の東欧国家は急進的民主化改革の中で国家権力が急速に縮小したが、社会主義時代から引き継がれた国家の社会福祉責任は減少しなかった。その結果自由主義派が政権に就くと逆に政府権力の強化に努めたり(たとえばロシアのプーチン)、左派が政権に就いて逆に福祉に大なたを振るったり(たとえばハンガリーの「ボクロシュ・パッケージ」)という現象が出現した。これは確かに「福祉国家でもなく、自由放任でもない」という言葉に対応している。

 だが中国は全く逆に、一方で改革20年たっても政治権力が制約を受けないという状況は本質的に変わっておらず、もう一方で改革前の旧体制以来社会福祉水準はもともと非常に低いのに、国家は大多数の国民(農民)に対してその低い社会保障の責任すら負担せず、むしろ厳しく権力を行使し、彼らを空前の厳格な身分制の束縛の下に置いている。この二つの事実は同類の制度を持つ他の国においてさえ例がない。だから簡単に中国の国家装置を「大きすぎる」というのは必ずしも正確ではない。実際にはこの装置は権力が大きすぎ(そのため市民の自由が足りない)、責任が小さすぎる(そのため社会保障が足りない)のだ。このような状況の下で、国家権力を制限する自由主義の要求と国家の社会的責任を拡大する社会民主主義の要求の間に矛盾が生じることがあるだろうか? あるいは都市住民にとっては多少矛盾するかもしれないが、農民にとっては完全に一致している。

 しかし中国の一部の新左派の傾向の学者は正反対のことを主張している。彼らは権力問題では強烈な国家主義的立場に立ち、執拗に国家の「吸引力」拡大を図るが、責任問題では非常に「自由主義」的で、政府の社会保障の責任を免除し、コミュニティ・サービスとボランティアで代替するよう要求している。これは疑いもなく非常に「中国的特色」ある立場だ。

 私はコミュニティ・サービスの類の領域は、非国有経済を大いに発展させるべきなのと同様、大いに発展させるべきだと思う。だがそれは政府の責任を免除する口実にすべきではない。我が国は西側諸国とは異なり、市場メカニズムが発展し過ぎたなどとはとても言えないのと同様、国家が担う社会保障を含め社会保障全般がとても発達しているなどとは言えない状況なのだ。人口の80%を占める「農民」(農耕者だけではない)にとって、競争の自由と市民的権利がないことは社会保障がないことと同様驚くべきことだ。とりわけ、我が国の計画経済時代の労働者が生み出した社会保障積立金が国家資本の一部となっていて、証券の分配などの方法を通じてこれを国民に返していないのに政府の社会保障責任を免除するということは、労働者の搾取に他ならない。だから私は今日の中国で「市場の失敗」と「政府の失敗」だけを強調することには副作用があると思う。今日の中国は実際は「規範的競争による効率的な市場」と「民主化による効率的な福祉国家」の目標に向かって発展している〔すべきである〕。これは先進国と異なるだけでなく、伝統的私有制の下での開発途上国とも異なり(彼らには歴史的に国有資本項目に公益積立金を含むという問題はない)、さらには他の多くの移行国家とも異なる(彼らは旧体制の下でも社会福祉が我が国よりずっと発達していただけでなく、移行後その多くが公益積立金を国民に返還している)。このような状況の下では、「国家の責任を多めに」という社会民主主義の立場と「市民的権利をより多く」という自由主義の立場は相互補完関係であり、決して相互排斥関係ではない。米国のレーガン元大統領は「私たちは政府に対し本来ボランティアが担うべき仕事を担わせている」と言ったが、米国ではこの発言は自由主義の立場から発せられている。しかし中国の現状の下で同じことを言ったら、多分自由主義の立場に反するだろう(社会民主主義に反することは言うまでもない)。

 『第三の道』において、「ニューレイバー」ギデンズは「保守主義者」レーガンのこの発言を称賛している(同116ページ)。これは今日の西側社会民主主義者と自由主義者の「福祉国家でもなく、自由放任でもなく」という前提の下での共通認識である。ギデンズが「社会投資型国家」によって伝統的福祉国家に代えるという理念の中で「第三セクター」(ボランティア型の公益を基礎とする非政府組織もしくは非営利組織)に非常に重要な地位を与えていることは、私たちにとって啓示に富む。だが西側の「第三セクター」の主な任務は政府の責任の分担(ボランティア方式でもともと政府権力が提供していた公共財を提供する)ことであり、政府権力を制限することではない。中国の「第三セクター」はもちろん積極的に責任を分担すべきだが、政府の責任を肩代わりする必要はない(まして彼らにその能力などない)。逆に、政府の権力を制限することは中国第三セクターの任務とすべきであるだけでなく、それは中国で第三セクターが存在し、発展するための前提でもある。

 要するに、彼らの問題は、自由主義(実際は保守主義というべきだ)はすでに不十分で、社会民主主義も不十分だから、「第三の道」を探さなければならないということだ。だが私たちの問題は、自由主義でもいいし、社会民主主義でもいいが、まず両者の共通のベースラインを実現しなければならないということなのだ。そして最も恐ろしいのは、自由もないし社会民主主義もない第三の道、かつてヒトラーがやったような「アングロサクソン式民主主義」と「ソビエト式民主主義」を超越する「ゲルマン式民主主義」のような道に進むことである。

(最近雑誌『天涯』に私の『田園詩と狂詩曲』の韓国語版序文を発表したが、この文章の原題は「自由主義と社会民主主義の共通のベースライン」だった。しかし編集部が本文はそのままに、私の同意なしに題名を「私の第三の道」に変えてしまった。この題名は人目を引きはするが、文章の内容とは矛盾しており、適当でない。この場を借りて説明しておく。)

初出:許紀霖、劉編『麗娃河畔で思想を語る:華東師範大学思与文講座講演集』華東師範大学出版社,2004年版

出典:http://www.chinese-thought.org/jz/003080.htm

(転載自由、要出典明記)

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