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秦暉:「第三の道」か、それとも共通のベースラインか?(四)

2010-02-20 18:43:40 | 中国異論派選訳

 歴史の起源からも現実の論理からも、「ニューレイバー」理念の形成には裏付けがあり、これを単純に現実主義の選挙戦略と解釈することはできない。もちろん彼らの政治論理によれば、選挙人に迎合することはおかしなことでも、恥ずべきことでもない。選挙人の意思を考慮しないとしたら、皇帝の顔色をうかがうのだろうか? 一人の思想家としては、もちろん上にも媚びず民にも媚びずに、知見に基づいて真実を求めるべきであるが、社会運動としては、その興亡は学説史の視点からではなく、社会学的視点から解釈しなければならない。ギデンズは学者ではあるが、マルクーゼやフーコーのような象牙の塔の中の人とは違い、社会運動の理論家としての彼は学術の論理だけによって著述することはできない。

 もちろん、「社会民主主義の復興」は自由主義化だけでなく、左派の社会批判精神の継承を求める。ギデンズはここで多くの卓見を提示している。例えば彼は「中間派すなわち穏健派」という常識論を否定し、「急進的中道左派」論を提示している。彼の説明によれば、この見解は西欧より中国に対してより大きな価値がある。彼は「抱え込み」の福祉政策を政府の人的資源への投資に改め、教育と訓練に力を入れ、「可能性」の平等と人間の潜在能力の開発を実現することで福祉国家を「社会投資型国家」に変えるという。彼は「大きな政府」「小さな政府」の議論を越えて、機能を改善した新しい政府を作るという。また、公平に対する共感の方が文化に対する共感より重要だという観点などなど。

 これらの観点のいくつかは我々にとって啓発的な意味がある。例えば公平に対する共感は文化に対する共感より重要だという観点だ。よく知られているように、歴史的に社会民主主義者の普遍主義的傾向は保守主義者よりはるかに強い。中国で今広く流行している文化相対主義、文化決定論と伝統的社会民主主義の普遍主義的価値指向は相容れない。今の社会民主主義の自由主義化はその普遍主義的性質を弱めるものではなく、社会民主主義の「実質的平等」を一定程度自由主義の「形式的平等」にとって代えるにすぎない。「社会的公正を支える基礎は広範に存在する。その支えは保守的なカトリック教徒からも、東海岸(プロテスタント)の自由主義者からももたらされる」「大多数の人の公平感への依存は多元文化主義者の理解をはるかに上回っている」という研究者の言葉をギデンズは引用している(同112、138ページ)。これを見れば、コソボ問題などで「ピンク色のヨーロッパ」が保守主義のヨーロッパより「正義の干渉」に熱心だったことは少しも不思議ではない。

 また「第三の道」を中道路線とみなし、さらに中間派を中庸で穏健な傾向とみなす伝統的見方に対し、ギデンズは「ニューレイバー」はその戦闘性を維持するだろうと特に強調している。彼は現代のヨーロッパの社会党が議論している「活発な中間派」もしくは「急進的中間派」の主張について、「これは『中道左派』が必ずしも『穏健な左派』と同じということを意味せず」、「社会的正義と政治的自由は依然としてその核心である」と指摘する(同48ページ)。

 社会政策面での「ニューレイバー」理念がまだ具体化していない段階では、これらの話はまだイギリス人を納得させることはできない。だが、別の社会的背景のもとでは、「急進的中間派」は論理的必然である。とりわけプレ民主状態化の独裁国家においては、自由主義であれ社会民主主義であれどちらも次のような立場を意味する。すなわち、「反対することを許す政府を擁護し、擁護することしか許さない政府に反対する」。このような立場は西側式の現代左派が断固として「反対することを許す政府」に反対しているのと比べ、そして伝統的右派の王党派がひたすら「擁護することしか許さない政府」を擁護していたのと比べ、疑いもなく典型的な「中間派」の立場である。しかし、西側とまったく異なるプレ民主状態化では、上述のいわゆる左派と右派の立場は非常に近い――「擁護することしか許さない政府を擁護する」ことと「反対することを許す政府に反対する」ことは実際は一つのことである。そしてこの状況の下では上述のいわゆる中間派の立場(自由主義と社会民主主義の共通の立場)は非常に急進的なものとなる。――これは合理的な急進性であり、近代化と民主化に必要な急進性である。それは「実質的平等」を口実に形式的平等を破壊し、全体至上の旗を掲げて市民的権利と個人の自由を奪う「急進」とは根本的に異なる。「社会的正義と政治的自由」こそが「急進的中間派」理念の核心である。

 同様に、この種の自由主義者と社会民主主義者の共通のベースラインとしての「急進的中間派」の立場は自由主義と社会民主主義の間の調和と中庸の立場とは根本的に異なる。「急進的中間派」は近代的市民としての指向を有する自由主義者と社会民主主義者が共同で前近代的伝統と独裁の桎梏に反対する立場である。そのような立場に立たない「自由主義」は実質的には寡頭主義であって自由主義ではない(「自由主義右派」ですならない)。そのような立場に立たない「左派」は実質的には警察ポピュリストであって「新左派」ではない(「旧左派」すなわち古典的社会民主主義者ですらない)。
 
 ゆえに私たちはそれを自由主義と社会民主主義の間の「第三」の立場ではなく、「共通のベースライン」と呼ぶ。この共通のベースラインは二つの「主義」が独裁に反対する闘争の中で形成されたものであり、もちろんギデンズ理論の成果ではない。ギデンズが探求しているのはたしかに二つの主義の間の「第三の道」だが、この本について言えば、その道はまだ見つかっていない。上にのべたように、本書が実際に体現しているのは社会民主主義の自由主義化である。ギデンズは労働党の社会民主主義の顔を曖昧にしている(もちろんそれは彼に始まったことではない)が、「第三の道」が一体どこにあるのかはまだ明確にしていない。この点では、労働党の支持者と社会民主主義運動の仲間たちは彼に不満を抱く理由がある。しかしギデンズは共通のベースラインの「急進的」立場は曖昧にするどころか、むしろ際立たせている。これについて私たち中国人は満足を表明する理由がある。ギデンズは社会民主主義と自由主義の境界を曖昧にしたが、社会民主主義とポピュリズム・権威主義・民族主義など「東側〔中国〕左派」の伝統的病との境界を曖昧にするどころか、違いをいっそう明確にした。その境界は、ギデンズやこの本について騒ぎ立て、「第三の道」と「鞍鋼憲法」〔1950年代末、中ソ対立後の中国の生産躍進方針。ソ連のマグニトゴルスク鉄鋼コンビナート憲法に対抗して出されたもの。〕の類の改革前の旧体制とを一緒くたにする人々を含む多くの「東側〔中国〕左派」が曖昧にしようと努力しているものなのだ。

 共通のベースラインの立場は、また反独裁・自由獲得の「急進的中間派」の立場であり、歴史上自由主義者と社会民主主義者の同盟の基礎だった。ロシア社会民主主義の第一人者プレハーノフの言葉を借りれば、その時の両者は「別個に進んで、共に撃つ」という関係だった。当時の人々は自由主義者と社会民主主義者がともに主張していた価値のために奮闘し、自由主義者と社会民主主義者がともに反対していたもの(独裁制度など)に抵抗していた。自由主義者が支持し社会民主主義者が反対していたものと、自由主義者が反対し社会民主主義者が支持していたものは、当時はどちらも顕在化していなかった。

 自由民主秩序が実現し、共通のベースラインの要求が現実になり、自由主義と社会民主主義がともに反対していたものが姿を消した後で、二つの主義の間の対立が先鋭化したにすぎない。だがたとえその時でも、共通のベースラインに含まれる基本的価値の承認は存在し続けるので、自由主義と社会民主主義の対立も決して常に最優先されたわけではない。それどころか、多くの場合保守主義と社会民主主義の対立(たとえばイギリスの保守党と労働党の二元政治を代表例とする多くの西欧国家)、および自由主義と権威主義の対立(たとえばいわゆる冷戦)の方がはるかに目立っていた。これは歴史的原因だけでなく、前節で述べたように論理的帰結でもあった。
  
 今日世界中で、少なくとも理論上は次の三つの対立は決着している。自由主義と権威主義の対立は冷戦の終結、権威主義の崩壊によって決着した。保守主義と社会民主主義の対立は双方が「第三」の方向に向かうことで(すなわち自由主義化により)決着した。自由主義と社会民主主義の対立は本書をメルクマールとして、後者が前者に接近することで決着した。――前にのべたようにこれは冷戦の結果というだけでなく、より重要なのは新産業革命と、先進国の社会構造の変化と関係している。要するに、以上の三種の対立は自由主義の優位によって決着しているのだ。

 それ以外に、ブランデル=ゴスチョークの四象限分析によれば論理的に可能な他の三つの対立の決着はもっと早かった。(イギリス保守党のディズレーリからサッチャー夫人までの変化をメルクマールとする)保守主義の自由主義化は労働党の自由主義化の前にすでに完了している。保守主義の権威主義化(ビスマルクからヒトラーへの変遷をメルクマールとする)は社会民主主義の権威主義化(プレハーノフからスターリンへ)の崩壊の前に第二次大戦の終結によって瓦解している。社会民主主義と権威主義の対立は、1956年~1989年の間に前者が徐々に優位を占め、1990年以降の社会民主主義の「勝利」はその後の社会民主主義自体の自由主義化によって決着している。

 言い換えれば、今日では四象限分析の中で存在可能な全ての対立がすべて自由主義に有利な結果になっている。今日の西側の二元政治は、プレ自由状態、独裁状態下の「階級闘争」とは全く異なり、また20世紀前期の民主制の下での二元政治とも非常に異なる。識者の言葉を借りれば、たとえイギリス労働党よりさらに左のスウェーデン社会民主党でさえ国王という「保守の象徴」を尊重することを知っており、イギリス保守党よりさらに右のスペイン国民党でさえ労働組合という「急進団体」を尊重することを知っている。「自由が主義に優先する」が社会の共通認識になっただけでなく、各「主義」自身の制度的含意もかなり似たものなっている。


出典:http://www.chinese-thought.org/jz/003080.htm

(転載自由、要出典明記)

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