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京都の秋

2014-12-06 15:48:32 | 旅行

 

金閣寺 (鹿苑寺

 お釈迦様のお骨を祀った舎利殿「金閣」が特に有名な為、金閣寺と呼ばれているが、正しくは

「鹿苑寺」ろくおんじ)と言い、臨済宗相国寺派の禅寺です。 (1994年、世界文化遺産に登録)

 この地は、鎌倉時代に西園寺公経(さいおんじきんつね)の別荘北山第(だい)が在りましたが足利

三代将軍義光が大変気に入り、応永4年(1397)に西園寺家から譲り受け、山荘・北山殿(きたやまでん)

を造りました。

 金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世に現したと言われ、後小松天皇(一休禅師の父)

をお招きしたり、又、中国(民国=みんこく)との貿易を盛んにして文化の発展に貢献した所で、

この時代の文化を特に北山文化と言います。

 

 

銀閣寺 (東山慈照寺)

 銀閣寺は臨済宗相国寺派(りんざいしゅうしょうこくじは)に属する禅寺で、建立は文明14年(1482)

室町幕府八代将軍足利義政公による。

 義政公は祖父にあたる三代将軍足利義満公の北山殿金閣(鹿苑寺=ろくおんじ)にならい、、隠栖

生活を過ごすため、山荘・北山殿を造営。この北山殿が銀閣寺の発祥である。銀閣寺は俗称で、

正しくは東山慈照寺(ひがしやまじしょうじ)、義政公の法号慈照院にちなみ、後にこう命名された。

 東山殿は義政公を中心に形成された東山文化の発祥地であり、日本人の近世的生活文化の

発端をなしている。

 今もなお、銀閣寺には東山文化と禅宗文化の融合をみることが出来る。 

 向月台 (こうげつだい)

↓ 観音殿

↓ 花頭窓 (かとうまど)

  窓の外に見える砂地は銀沙灘(ぎんしゃだん)と言いこの右側に向月台がある。

 

↓ 源光庵

  ここ、源光庵には二つの有名な「窓」があり、訪れる観光客はこの窓が目当てである。

 ↓ 左の丸い窓が「悟りのまど」、右の四角い窓が「迷いの窓」

↓ この丸い形は「禅と円通」の心が現されており、ありのままの自然・清らか・偏見のない姿、つまり悟り

  の境地を開くことができ、丸い形は大宇宙を表現しているそうです。

↓ この四角い窓は人間が誕生し一生を終えるまで逃れることの出来ない境地、つまり「人間の生涯」

 を四つの角で象徴しています、この「迷い」とは「釈迦の四苔」のことで、この窓が生老病死の四苦八苦

 を表しているそうです。

↓ 渡月橋 (とげつきょう)

   今年の3月か4月頃だったかな~ 大雨の為増水し橋が流されるほどだったね”(2014年)

↓ 大沢池(おおさわのいけ)より大覚寺を見る

  ここはもともと嵯峨天皇が弘仁年間(810~824)に造営された離宮「嵯峨院」の苑池(えんち)の一部

現在、大覚寺境内に属している。中国の洞庭湖(どうていこ)になぞられて「庭湖」(ていこ)ともいい作庭

当時は泉・滝・名石等の美を極めた池泉遊式庭園であった。

 今なお、お池中には、「菊ガ島・天神島の二島」と、巨勢金岡(こせのかなおか)が配置したとされる庭

湖石(ていこいし)があり、広々とした大陸的雰囲気を漂わせ、、菊ガ島・天神島のの二島と巨勢金岡が

配置したとされる、庭湖石があり、広々とした大陸的雰囲気を漂わせた現存する我が国最古の一つで

ある。

↓ 南禅寺内にある琵琶湖疏水の水の流れる橋

↓ このトンネルの上を琵琶湖よりの水(疏水)が流れているんだけど、TVでよくドラマのロケ地として放映

 されているよね!

 ↓ 三重塔と清水寺のライトアップ

↓ 清水の舞台

 


広島城・岩国城と原爆ドーム 錦帯橋

2014-12-05 14:59:13 | 旅行

 

 

2013.12.04 撮影(1年前の画像)

 

広島城

 大大名毛利氏の新たな本拠地

 鯉城(りじょう)とも在間城(ざいまじょう)とも呼ばれるこの城は、毛利輝元(てるもと)が築いたものです。

 毛利氏は鎌倉時代に起きた承久(じょうきゅう)の乱(1221)の時に巧を成し、幕府から安芸国吉田荘(安芸高田市)

地頭樲(じどうしき)を与えられ、郡山城(こおりやまじょう)を中心に勢力を伸ばした豪族です。なかでも元敦(もとあつ)は、

傑出した人物で戦国時代の乱世の中、山陰の尼子氏をはじめ各地の有力武士を倒して、中国地方に並ぶ者のない

大大名となりました。

 元敦の孫輝元(てるもと)も、豊臣政権下で112万石の大名として大きな力を持っていました。彼は郡山城から、内海

交通の要所で、政治的・軍事的・経済的に有利な太田川河口に本拠を移すことをきめ、当時、太田川河口は「五ヵ村」

と呼ばれ、茸の繁る寒村だったと言います。輝元は、地元の豪族福島元永(もとなが)らの案内で、己い山や

二葉(ふたば)山などの上から検分し、その結果五ヶ村のうち最大の島「在間」の北部に城を築くことが始まりの様です。

 

 

岩国城

  慶長13年(1608)初代藩主吉川広家が築城。現在の城は昭和37年3月に復元されたもので桃山南蛮造り

の全国でもまれな山城で、城内には刀剣や書画が数多く展示されて(普通何処でも城内の撮影は禁止なのだがここはOK

↓  この画像は錦帯橋より300mmの望遠レンズで撮影。   距離は700m前後か?

4階の展望台からは岩国市内が一望出来ました。

 

脇差

 備州長船祐定   作

 

 

錦帯橋

   この錦帯橋の画像の右上の山頂に岩国城が有ります、岩国城を画像に入れる事がポイントだったが

  帰ってきて、アングルの悪さに気が付いたが、山口県まではそうそう、行けない、自宅より遠くの場所の

  撮影は疲れるよ。

 

原爆ドーム

 明治後期の広島では、伝統工業のほか軍需に結びついた近代工業が発達し、特に明治37年(1904)に起き

日露戦争を契機として、大量の軍事用品の地元調達が行われたことなどによって、経済は活況を呈しました。

 この様な経済的発展に伴い、国内での激しい市場競争に耐える製品の開発、品質向上、販路拡大を図るた

めの拠点造りが求められました。

 原爆ドームのもとの建物は、チェコ人のヤン・レツルの設計二より大正4年(1915)4月、広島県物産陳列館

として竣工しました。

 この建物は、一部鉄骨を仕様した煉瓦造の建築で、石材とモルタルで外装が施されていました。全体は窓の多い

3階建てで、正面中央分は5階建の階段室、その上に銅版の楕円形ドーム(長軸約11m、短軸約8m、高さ4m)が載せ

られていました。

 館の業務は、産業奨励だけでなく、開場を提供することで博物館・美術館の役割も果たし、広島の文化振興の場

として大きな役割を担っていました。

 館の名称は、大正10年(1921)広島県立商品陳列所、さらに昭和8年(1933)からは広島県産業奨励館

と改称されています。

 


岡山・倉敷市  美観地区

2014-12-04 16:59:46 | 旅行

 

撮影日 13.12.04(一年前)

 

岡山・倉敷     美観地区

 

倉敷考古館と中橋    ここが、美観地区の撮影ベストポジションか?(あくまでも、私の主観)

 

大原美術館

 

大原邸

 

大橋家  重要文化財

 間口は小さいが中へ入ってビックリ、とても広いよ。

 ”おいら”には、あまりよく解らないが、様々なイベントをしていたよ、これは店舗でなく建物の古さ

建築様式などが当時のまま残っているからだろうか?

 

倉敷・美観地区の中央を流れている倉敷川

 船に乗っている人は観光客かと思ったら、倉敷観光協会のかたでポスター制作の為、写真を撮っ

ていたんだって。

 

今橋

 

美観地区の街並み

さんりお屋なんだって。

 

地酒屋さん

 チョット飲んでみれば良かったかな~

↑ 中 橋   見えないが右の灯籠の後ろに倉敷考古館がある。

↓ 亀浜亭   食べはしなかったけど、洋食屋さんで、メニューのステーキは、結構リーズナブルで

         美味しそうだったよ

 

 この店先に有る杉玉は醸造酒を作っているお店で、酒を仕込んだ時は葉つぱが緑色だが、画像

様に茶色になってくると、お酒の、の見頃を意味しているんだよ、お酒は売っているが、だだの酒屋

は無く、あくまでも醸造元。

 

廣榮堂本店

 きびだんご

 

秋なのに柳が綺麗だったよ、夜はお化けがでるようになるのかしら!

 

今橋と大原邸

 

鶴 形   (つるがた)

  

 


鎌倉流鏑馬神事

2014-12-04 05:52:18 | 旅行

 

鎌倉鶴岡八幡宮

 鎌倉のシンボルで鎌倉屈指の人気観光名所。

 かまくら八幡社は高徳院(鎌倉大仏)と並ぶ鎌倉観光の2大スッポットです。

鎌倉幕府を開いた源頼朝が1180年に創建」し」て以来、古都鎌倉の象徴として親しまれ、今も国内外から

多くの観光きゃっくが参拝に訪れます。

境内には国指定の史跡が点在し、結構、散歩以上の体力を消耗するよ。

 もう、7年以上になるかな?、本殿に上る急な階段の左に天然記念物の大銀杏の木が有ったのだが、台風

で倒れてしまい残念。

 

流鏑馬

 一般的に「流鏑馬」とは騎射の一種で、馬に乗りながら矢を射流して板的を射当てる競技であるかのように解説

されていますが流鏑馬本来の姿、今から約1400年前神事として起こった矢馳馬(やばせん)の訛化であり、心身

を鍛える為で有った様だ。

 正確には解らないが全長210mの走路に板的を三つたて弓で射て技を競い合うようになったようです。

 でも、一般人は、矢の当たるベストスッポットには入れず、報道陣や八幡宮の来賓が陣取っていた、なお走路は

木々が生い茂っていて暗いのだがフラッシュ撮影禁止、馬がフラッシュで、過去に光に馬が驚き暴走しコースアウト

したことも有ったそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


岡山城と後楽園(日本三名園の一つ)

2014-12-03 16:20:23 | 旅行

 

岡山城と後楽園

 ※備前の国邑久から起こった宇喜多尚家が、岡山の地、石田の城に、いた金光宗高を亡ぼして

城郭を拡張したのは天正元年(1573)の秋であった。それまでは金川の松田氏に属する小城に

すぎなかったが、直家はこの城を本拠として城下町の経営に着手し、岡山の繁栄をつくった。(12/03)

 

↓ 下2枚の写真は後楽園より岡山城を撮影。

 

廊下門

 表書院(中段)から本段(上段)に渡した長廊下の下手に設けられた門です。

 

↓ 岡山城月見櫓   国指定重要文化財

 月見櫓は、岡山城本丸を構成する一二三(ひふみ)の段の二番目に当たる中の段の北西角を固

める隅櫓で、池田忠雄(ただかつ・と読む)が岡山城主であった時の城郭整備に伴い、元和年間か

寛永間前半の時期(1620年代)の建築と判断されています。

 構造は一部地下付きの塗籠(ぬりごめ)造り本瓦葺二階建てで、城外(北西)側から眺めると三層

層塔型(そうとうかた)の景観を呈しており、規模は地階と一階が桁行(東西)三十二尺三寸(9.79m)

梁間(南北 はりま)二十六尺二寸(7・94m)・二階が方形で桁行・梁間とも十六尺五寸九分(5.03m)

棟高い四十五尺(13.67m)です。

 岡山城内は殆ど撮影禁止で、刀や書物・鎧兜などは撮影出来ない。

 

ここからは後楽園

 ↓ 流店 (りゅうてん)

 屋内中央に川を通し、色彩、奇彩に富んだ奇石六個を配した全国的にも珍しい建物で、藩主の

庭周りや賓客の接待などで、休憩所として使われました。

 

 

 

 

 延養亭  (えんようてい)

 藩主の居間で園内で最も重要な建物でしたが、戦災で焼失し、昭和三十五年に当時第一級の木材

と技術で建築当時の間取りに復元されました。

 

 

↓ 廉池軒  (れんちけん)

 戦災をまぬかれた数少ない建物の一つで、池に架かる石橋や対岸の小島なども、住時の姿を今に

伝えています。

 

 

イチョウの木も、なかなか綺麗だね。