
昨日は、朝鮮半島に栄えた渤海国からの渡来人船代の木像の話を書きましたが、今日は安曇野の松川村観松院蔵の「弥勒菩薩半跏思惟像」について書きたいと思います。
午前4時過ぎ外は真っ暗で秋の虫の音が聞えます。室内ですから気温はさほど寒くなく適温の18度ぐらいではないでしょうか。
今私は安曇野市の有明の中房温泉郷の近くに住んでいます。燕岳(つばくろ)の登山口に通ずる県道中房線に近い側に位置する山麓地帯です。山岳信仰の対象である有明山の登山口でもあることから関係する小さな神社や有明神社があり小字名は「宮城(みやしろ)」と呼ばれる地籍です。
付近には数多くの古墳が点在し、古墳時代には一つのコロニーを形成していた場所であることが分かります。
JRの最も近い駅は、大糸線の有明駅で、次に近い駅は穂高駅です。穂高駅は特急も止まることから旅番組ではよく登場する駅です。安曇野市は旧穂高町と明科町などが平成の大合併で誕生した市で、旧穂高町には名前のとおり穂高神社があります。この神社の奥社は上高地ですが、直接上高地に通ずる道路はなく波田町という遠くの町を通る上高地線を利用するしか方法はありません。
話題にしようとしている松川村は、大糸線を大町市に向かって北上した有明駅の次の松川駅を中心にした小さな村です。蛇足ですがJR大糸線は、松本駅から新潟県糸魚川市に通じる鉄道ですが「松糸線」または「糸松線」とは呼称せず「大糸線」と呼称します。これは大町市に戦前戦後栄えた昭和電工というアルミ精錬工場があり大町市が大変栄えた時期にできた線路ですので大町市を中心に敷設されたことからそのように呼称されるようになっています。
今朝の写真は、話題にしようとしている「弥勒菩薩像」の写真で銀河書房から出版されている「信州の韓来文化 今井泰男著」から拝借しています。
したがってこの松川村の松川村観松院所蔵の「弥勒菩薩半跏思惟像」は、朝鮮半島から渡来した数少ない仏像の一つではないか、制作年代は7世紀ころではないかとされるものです。
この像は、右手の部分だけが木製で、補修されています。何故にこの地にこの仏像があるのか分からないことから謎多き仏像と呼ばれています。
昨年松川村にある「ちひろ美術館」の松本猛さんが菊地恩恵さんという方と共著で「失われた弥勒の手」という小説を講談社から出版されているので、この弥勒菩薩像について知っている方も多いかもしれません。
安曇野の一角に位置することから、安曇族という古代族が住んでいた場所かもしれない、九州の安曇族との関係があるかもしれないという方も多く、松本さんの小説も弥勒菩薩の右手補修の欠損部分をヒントに九州からの安曇族の移住を推測し書かれています。
確かに正倉院資料から「安曇部真羊(あづみべのまひつじ)・安曇部百嶋(あづみみべのももしま)」という天平宝字8年(764年)に信濃国安曇郡前科郷から調布として奈良の都に袴布が貢上されている事実から、安曇族がいたことは事実です。また式内社である穂高神社にお船祭りが現存するので海洋民族を推定する人も多いのですが、このような祭りはここだけではないので一概には言えないのが実際です。
安曇族は海洋と給食(食糧)を掌るの関係で、どちらかというと国津神系で、松本平から安曇野平にはどちらかというと渡来系の人々の痕跡が多くあり、したがって松本平から安曇野平にかけての渡来文化研究するサークルが多くあります。
松川村の観松院所蔵の「弥勒菩薩半跏思惟像」誰がいったい持ち込んだのか、私は東信濃に勢力を持ち、その後に松本平から安曇野平にかけ勢力を伸ばした滋野氏であると思っています。