思考の部屋

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共通善と自由意志

2010年04月24日 | 宗教

 特定宗教に属する人が善き行いと説かれる場合、その属する宗教という共同体の共通善がその根源にあると考えます。

 この善き行為、善き行いが、特定宗教に属さない者、特定宗教に属しても互いに共通性を有する場合には、万人にとってその行為は善き行為といえると思います。

 アリストテレスの倫理学における最高の善は「エウダイモニア」と呼ばれ、ギリシャ語の「エウダイモニア」とは「至福」「幸福」「繁栄」などと訳されるそうです。(『アメリカ現代思想』仲正昌樹著P135)

ところで、幸福とは卓越性に即しての活動であるとするならば、当然それは、最高の卓越性に即しての活動たるべきであろう。最高の卓越性とは、しかるに、「われわれにうちなる最善なるもの」の卓越性でなくてはならない。しれゆえ、これが知性(ヌース)であるにせよ、またはそれ以外の何ものかであるにせよ、いずれにしても、その本性上、支配指導する位置にあり、うるわしいもの、神的なるものについて想念(エンノイア)を持つ(それ自身がやはり神的なものたることによってであれ、)と考えられるところのもの-----こうしたものの、その固有の卓越性に即しての活動が、究極的な幸福たるものではなくてはならぬ。それが観照的な活動にほかならない・・・・・・。(『アリストテレス・ニコマス倫理学(下)』(岩波文庫P173第十巻・第七章)

 ここでいう観照的とは、「自分より上位のもの・すぐれたものを観ること」です。

 ここにでてくる「卓越性」についてアリストテレスは、「倫理的性状の卓越性すなわち徳」(上記書P106-Ⅷ)といいますから、卓越性とは徳ということです。

 仲正昌樹先生は、上記書に次のようにアリストテレスの「徳と共同体」の関係について書いています。

 「エウダイモニア」という目的を追求するために必要とされる特質が「徳」である。「徳」を鍛えることによって、各人は自らの情動や欲望を秩序付け、正しい場所で正しい仕方で判断して、善い行いをすることができる。アリストテレスは、そうした意味での「徳」というのは個人の生活の内にだけではなく、「共同体」としてのポリスの生活の中に見出されると主張する。「共同体」は、人々が「共通の善」として認知したものを、共通事業によって達成するために創設される。(上記書P135)

 このような「共通善」の考え方、古代ギリシャ特有のものではなく、古き日本においても「江戸しぐさ」のような生活様相やかすかに残る、地域のしきたりの中に見出されます。

 しかし、自由主義や個人主義が台頭してくるとこの「共通善」という考え方は薄れ、都市への人口集中やマンション住まい等で住民と地域とのつながりは希薄なものとなり、防犯面も含めて互助的なつながりも希薄になってきました。

 そこで登場するのが「ご近所の力」という風潮であり、コミュニタリアンを中心とした共同体思想です。

 ところがここに自然主義的や原始共産主義的な共同体思想があります。明治時期の白樺派の共同体や戦後の原始共産制自然主義集団農場、山村廃屋共同生活集団等があります。

 これらに共通するところは社会主義的な平等観に伴う私有財産の共有ですのが、これは公共財産が共同体財産い移行しただけで、組織による独占支配であり、公権力からの自由は獲得できても、共同体の「共有善」による規則の支配制度から本来的な自由は望めなくなります。

 ここで個々人に強いられるのは「全体の利益にあわせる」という「同一性の論理」が培われていきます。すると属する人々は、独自の判断を止め、自発的に、自らの自由意志により「全体」の目的のために同調するようになります。

 この共同体のものから見れば、自由意志によるとは理解できないことでも、属するものにとっては、自由そのものになるわけです。

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 各宗教、各宗派における共通善は、垣根を越えた普遍的な基本の共通善もこの「共同体での自由意志」に基づいています。

 この自由意志という言葉は、その記号的な意味からは普遍的な概念を想起しますが、自己のおかれた場により大きな相異があり、ある種起爆剤としての存在でもあるわけです。

 その相異の自覚は、場にある者には、証明不可能、承認不可能に思えます。ゲーデルの世界のようにも思いますが、実際そのように思います。

 (自由とはなにか。理知の役割)
 私たちの心にはいろいろな落ちつかなさがかなりたくさんあって、いつも意志を決定するようにせがみ、決定しようとしている。それゆえ、当然、すでに述べたように、最大の、最も差し迫った落ちつかなさが意志を次の行動へ決定する。そしてだいたいはそうである。が、いつもそうとはかぎらない。なぜなら、心は大部分の場合、経験上明白なように、欲望のどれか一つを果たし満たすことを停止する力能を持ち、ひいては全部の欲望について順々に停止する力能を持っている。そこで、心は自由にそれら欲望の対象を考察し、あらゆる面
にわたって検討し、相互に比較考量するのである。
 ここに人間の持つ自由がある。そして、自由を正しく使わないところから、私たちが適正な検討をする前に急いで意志を決定し、事を早くやりすぎると、人生を導き幸福を求めて努力する際、わたしたちの陥る多種多様な間違い、過失、あやまちがすべて生ずるのである。・・・・・(世界の名著・ロック『人間知性論』中央公論社P116上段から)

 イギリスの政治哲学者ジョン・ロック(John Locke, 1632年8月29日 - 1704年10月28日)の言葉です。

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 (自分の)見解にしがみつき、「これだけが真理である」といい争う者たちは、すべて(他者からの)批難を招く。また賞賛を受けることもある。(スッタニパータ895・NHK出版)

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