「私は、何者なのか」という問いをもつ。過去にEテレ「モーガン・フリーマン~時空を超えて」という番組で放送されていたことを思い出します。意識清明状態にあれば私の氏名も答えられますし、鏡に映った自分の姿を認識し化粧を施すこともできます。ところが個人差のある話ですが、3・4歳が境でその年齢に達するまでは、鏡に映った自分の姿を自分であると認識できないようです。
そこに映る人物が私であるということが認識できるようになると他者の目からも自我を持った一存在者に見えてきます。そこで重要なのは記憶機能でそれが連続して脳内に記憶されることで自分という認識できる意識清明が確立していきます。
「私は何者なのか?」とは記憶機能が正常であればこそ可能な問いにもなるわけです。
何かの理由で海馬機能が低下し、また他の脳機能部位と切断すると意識はあるものの自分という認識が一夜で消えていき、寝覚めとともに再度自分のその時の思いや体験を記述するなどして新しい自分作りをしなければならないことになります。
脳科学の進歩によって私という存在認識は脳全体で作り出されるもので、時間と空間に生まれる「成りて有る」現われということができます。原始仏教では「炎」とも表現されています。
総じていえばあらゆる物質が複合的に関係し連鎖し形成されるのが「私」ということになるわけです。
「私が私でなくなる時とは?」脳機能が正常に機能しないときで精神的な機能障害もあれば、物理的な障害もあり、供給物質の消滅もあるわけです。
前回の「ラプラスの悪魔」の話に重ねますと、私を形成する物質と活動エネルギーを究極まで知悉できそれを認識できれば時間の流れに解き放された私の生命活動時間は予測でき、死も予想できるわけです。
しかし人間はそうなってはいません。食事をする、運動をする、供給と消費は常に移り行き生命力が持続するまでくり返されます。
日本の歴史上には、生き仏と称される実際に食事を制限し仏になろうとした僧侶がいました。利己的な存在から利他的な救済の祈願を永遠の生命の獲得と重ねたのでしょう。祈念の思想は他者の心には残り、肉体は枯渇し残ることになります。
「人間一人一人は彫刻される石であると同時に彫刻するノミである。」
「夜が明ける。そこが意識である。」
シュレーディンガーはこのような言葉を残しています。(湯川秀樹随想集『こころゆたかに』シュレーディンガーの世界観)
目覚めた私は、無意識化された日常行動を開始し意識の連続の中に私をはじめます。
個人的な思考の探求課題に「実存」という言葉があります。感覚的なつかみを多分に含む言葉で、ある人は世界の内にあって、刻一刻と自ら決断をしながら生きていく宿命を負った人間の存在のことを哲学では実存という特別な言葉で呼び、単なる物ではない者としての人間の存在を強調している、言葉だともいいます。
宿命か、運命か、意図なき時の流れに置かれていると、そのリアル感に圧倒されるとき実存という言葉が意味を成してきます。そこに人間の本質を問う以前の偶然性の成りて有(あ)る様にわたしは実存という言葉を重ねます。
ひと昔の哲学者九鬼周造は次のように語っています。
哲学的人間学は要するに人間の本質を把握することを中核的目標としている。それに反して実存哲学は存在問題それ自身を解決するために実存を解決のカギと見做しているのである。実存は現実的存在として可能的存在とともに広義の存在の態様である。実存哲学は実存によって存在一般への通路を求める哲学である。・・・・<略>・・・・哲学的人間学は或る意味で実存哲学よりも広い領域または見地を有すると言える。他方にあって、実存哲学が存在一般を視野に有つ限りに於いて、実存哲学の領域または見地は哲学的人間よりも広いと言える。結局いずれを広いとも狭いとも一概には極め難い。のみならず、哲学的人間学が人間の本質を把握する場合に、苟くも哲学的である限り、存在一般との関連を無視することは出来ぬ。また実存哲学が存在一般へ行く通路として選ぶところは外でもない人間的存在である。斯くして実存哲学と哲学的人間学とはやや視点を異にするに過ぎぬほぼ同型の哲学であると考えるのが至当であろう。(九鬼周造全集第三巻『人間と実存』p94、文庫p103-p104)
哲学的人間学と実存哲学を九鬼先生はやや視点が異なるに過ぎないと言います。個人的には先に言ったように「実存」という言葉に惹かれます。実存哲学の何が私を惹きつけるのか。
この方も過去の哲学者ですが高山岩男は、
ギリシャ哲学以来理論性によって厳密な学を構成するのが西洋哲学の伝統であるのに対し、実存哲学が学よりも生を重んじ、哲学を哲学するという実存の内的行為と考え、哲学と実存、知と行との間の内的統一を重視する点をとってみれば、東洋哲学は概して実存的哲学であり、東洋哲学の方こそ却って実存哲学的であるとさえ考え得るのである。
この意味では宋の儒学、仏教諸派の哲学、皆、実存哲学であると言ってよい。仏教は宗教と考えられているが、哲学を棄てる宗教でなく、むしろ哲学と融合している宗教であって、宗教で同時に哲学、哲学で同時に宗教であるようなものである。
仏教は哲学的に存在の無常性を即ち諸行無常を観じて本来の自己の自覚に至ることを要求している。ただ仏教はこの本来的自己、自己本来の面目を「無我」に見出すものである。
ここに今日の実存哲学と著しく違ったものが見られるが、実存哲学は実存の究極自覚をどこに置くかで異なるわけであって、この実存の自覚の深まる段階に応じて同じ実存哲学内部に色々なものが現れて来ると考えて一向に差しつかえない。
仏教は仏教たる限り無我を根本立場を逸脱することはないが、無や空の哲学的思索は仏教の発展と共に深まり、小乗仏教より大乗仏教へ、更に禅仏教や浄土仏教へと、あたかも一個の世界哲学史の如き観を呈する発展を行うにつれて、仏教的実存の自覚もまた一様のものではなくなるに至った。そして仏教哲学自身の内部に於いて特に実存哲学的な立場さえ成立するに至ったと見る事ができるのである。併しとに角、仏教が本来の自己の自覚覚醒を根本義とし、この哲学的要求と宗教的要求とを内面的に統一することを根本性格としていることは明白で、その意味で実存哲学の風格を濃厚にもつものと言える。(『実存哲学』宝文選書1969・p15-p16)
個人的に仏教学にも興味があり「無常」という概念に思索を重ねるものとして「実存」という言葉が浮き出てくるのは当然のようです。
禅僧の南直哉さんは『「無常」をめぐる仏教史~超越と実存~』を書かれていますが、まさに高山先生のこのことを語っているように思えます。
南さんは、
仏教では、「無常」と呼ぶ「実存」には存在根拠が欠けていると考えるが、仏教以外の思想は根拠があると考える。その根拠を押さえれば、実存の「核心」を理解できると信じている。
このとき、そういう根拠は、当然「実存」ではない。あるいは「実存」には含まれない。根拠が実存の内部にあっては、根拠として機能しない。
「根拠」とされるものは、実存の外部から、実存の仕方に対して決定的に作用しなければならない。それが「超越」的存在であり、古今東西で答えのごときものとしてされてきたアイデアである。
「超越」的存在は、時には「本質」や「実体」などと呼ばれ、その存在を前提とすれば、無常の実存は「現象」とか「属性」などと規定される。(『超越と実存』新潮社・p24-p25)
南さんは若いころから
〇 死とは何か
〇 私が私である根拠は何か
という問いに取り憑かれてきた、と言います。
答えがあるわけではなく、都度の今という現象に応じる他に何もなく、何もないといっても応じる個(存在)に言葉を添えたくなります。
人類進化は裸の実存を造形し、知覚器官は喜怒哀楽を生み出す。実存的虚無や実存的空虚ばかりがあるわけではなく実存的歓喜もあるわけで、舞踏しかり、音楽しかり、絵画しかり、です。
発掘される装飾品、洞窟壁画に描かれた動物等の絵。
人類は何を継承し成りてあるのか。
夜明けとともにこの世に解き離されると「わたし」は「わたし」によって刻まれていきます。









