時々民俗学という言葉を使いブログを書くことがあります。「みんぞく」の学で「民族学」という学問もあり、文字を見ないとどちらなのか分かりません。
民族学となると「ユダヤ民族」「大和民族」「ゲルマン民族」「ラテン民族」「日本民族」「朝鮮民族」「中国民族」「インド民族」・・・と限りなく多様な民族概念の区分けでその民族の持つ特有性を比較する研究です。
ブログ村という分野別のランキングサイトがあり私も参加していますが、このサイトでは「哲学・思想ブログ」の中に「民族・民俗学」という区分がなされランキングがなされています。
この「民族・民俗学」では、思想家、宗教学者、人類学者の中沢新一先生のその主張を紹介するブログがランキング1位で、2位が日常的な食生活から始まり各国の歴史まで語る比較文化論的な内容とするブログになっています。
物事を知りたいとなると興味の視点で「ブログ村」を見るととても参考になります。自分の興味がどの分野にあるのか、どの学に当てはめることができるのかと考えるときにはとても参考になります。
さて話がずれてしまいましたが、「民俗学」とは何か、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では、次のように説明されています。
<引用>
民俗学(みんぞくがく)は学問領域のひとつ。高度な文明を有する諸国家において、自国民の日常生活文化の歴史を、民間伝承をおもな資料として再構成しようとする学問。民族学や文化人類学の近接領域。
目次
1 概要
2 民俗学の学問としての諸特徴
3 民俗学史
3.1 ヨーロッパの民俗学
3.1.1 イギリス、フランス民俗学
3.1.2 ドイツ民俗学
3.2 日本民俗学
4 民俗学研究法
5 研究対象と資料
6 日本民俗学の変化
7 在野の学としての日本民俗学
8 日本の代表的な民俗学者
9 日本の代表的な民俗学研究団体
10 民俗学に関わった作家・現代作家
11 関連項目
12 参考文献
13 外部リンク
と説明され目次別に紹介され、「民俗学の学問としての諸特徴」については、
民俗学の学問としての諸特徴
時代や学者によってその定義は多岐にわたり、概説的に説明することはむずかしいが、大まかにいえば以下のような特徴を持つ学問である。
1.研究の目的は、ある民族の伝統的な文化、信仰、風俗、慣習、思考の様式を解明することにある。また、こうした対象の歴史的変遷とともに、時代をさかのぼりながらその原初形態を明らかにしようとする傾向を持つ。
2.研究の対象が自民族の基層文化である場合は、他民族の事例を自民族の研究の補助材料として使う場合が多い。
3.研究の手法として、文献資料のほか、現代社会に残存する文化・風習・思考の様式を重視する。このためフィールド・ワークによる材料収集を行う。
4.また未開であると考えられる他民族の文化・風習・思考の様式を、人間のプリミティブな精神活動のあらわれであると考え、これを研究上の材料または補助材料とすることも多い(この点について、現在ではポストコロニアルな考えから批判が行われることがある)。「未開」と「古代」(始原)の同一視は民俗学の特色のひとつである。
5.現代人が無意識のうちに行っていること、あるいは合理的な説明をつけながら行っていることのなかに、古代的な意味を見出す、という型の研究が多い。
6.日本では文学研究・批評に大きな影響を与えており、この点で文化人類学・民族学とはことなった特色がある。
7.特に日本の民俗学研究にあっては、その初期に大きな影響を与えた柳田國男、折口信夫の二人が強烈な個性の持主であり、西欧渡来の学問の手法を消化して日本独自のフォークロアを完成させたため、「柳田学」「折口学」といった名で呼ばれることもある。また、柳田自身、「新国学」と称して民俗学の体系化を試みており、近世以来の国学の影響も強い。
8.日本民俗学は「在野の学」と表現され、他の諸学問と比較したときに最も特異とされる特徴でもある。これは在野とアカデミズム(民俗学を職業としているか否か)を区別しない、学歴や職業にかかわらず民俗事象に興味関心のある者は誰でも参加できる学問、といった感覚で用いられている。これらのことから、通常「在野の民俗学者」という言い方がされることは少ない(逆に「大学の民俗学者」という言い方がされることがある)。
9.日本においては民俗または民俗学という用語が一般には通じにくいことがあり、民族学(文化人類学)と混同されたり、ミンゾクという言葉から政治的な活動、研究を行なっているという勘違いを受けたりすることが間々ある。マスコミや出版物などにおいても「民族文化財」や「民族資料館」といった誤植が多く見られる(無論本当の「民族資料館」も存在する)。大学においては「紛争などの民族問題を学びたい」、「アイヌ民族を勉強したい」という理由で民俗学研究会の扉をたたく学生がいるのも新入生の多い時期には良くある風景である(民族学については隣接学問でもあるので、研究会、学会の中には研究対象に含めている団体もある)。
<以上上記著p9~p10から>
この特徴点の8番目に、
「日本民俗学は「在野の学」と表現され、他の諸学問と比較したときに最も特異とされる特徴でもある。」
と書かれていて、日常生活に直結する話が多いのに「特異」な分野であることが分かります。
私の場合、「民俗学」には常日頃興味を持ってはいますが今年ほど民俗学の分野に興味を持った年はありません。テレビ番組の「おひさま」の道祖神から、東日本大震災における魂のゆくえを考えるときにどうしても民俗学を身につけたくなりました。
民族学と言うと直ぐに思い浮かぶ学者名は柳田國男(やなぎだ・くにお)先生や折口信夫(おりぐち・しのぶ)先生で長野県にゆかりのある両先生なので手元にも何冊が著書があります。
柳田先生には総論的なく、折口先生となるとどちらかと言うと古典学に近いところがあり「民俗学」とは、となるとその語りを知ることは難しいところがあります。
今朝は民俗学の話の流れの中で、和歌森太郎という先生が語る「民俗学」について紹介したいと思います。
和歌森先生とはどのような先生なのかという話になります。そこでこれもフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』のお力を借りします。
<引用>
和歌森 太郎(わかもり たろう、1915年(大正4年)6月13日 - 1977年(昭和52年)4月7日)は歴史学者、民俗学者。専門は日本の民衆史・修験道史。千葉県出身。
人物
東京府立第四中学校、東京文理科大学国史学専攻卒業。戦前は国民精神文化研究所に籍を置き、堀一郎や萩原龍夫らとともに国民の信仰生活に関する調査を実施。その後東京文理科大学および東京教育大学教授。筑波大学構想に反対して同大学を去り、1976年から逝去する1977年まで、都留文科大学学長。東京教育大学名誉教授。
歴史学者の松本彦次郎(古代および中世庶民史)、肥後和男(文化史)などに教えを受け、修験道史研究の第一人者となる。一方では西田直二郎門下である肥後の文化史、および1941年から師事した柳田国男の民俗学の影響を受け、従来の文献資料に民俗資料を取り込んだ歴史民俗学的研究を開拓。教鞭をとった東京教育大学文学部日本史学専攻では桜井徳太郎(民間信仰史)とともに古代史講座に属し、史学方法論専攻と連携しつつ多くの研究者を育てた。現在に至るまで日本の民俗学界をリードするその流れは「東京教育大学派」と称され、村落の歴史や庶民の生活史を実証的に記述することに特徴を持つ。
またリベラルな歴史学者として知られ、戦後の教育改革で新たに設置された教育科目「社会科」の教科書を最初に執筆したことでも知られる。教育大時代には文学部長も務めていたが、同大学の筑波移転には強い反対の立場をとっている。移転反対派の牙城であった文学部においてもその旗手として論陣を張るが、評議会や理学部を中心とした推進派との対立から1966年には学部長を辞任している。
<以上>
と紹介され、その気骨な面が読み取れる人物です。
和歌森先生の民俗学の概説書に『日本民俗學』(青木弘文堂)があります。この著書の中で先生は、第二章「日本民俗の性質」一(節)「民俗と民族文化」の冒頭で次のように述べています。
<引用>
「民俗」という熟語はもちろん中国文献に古くから見えて居り、それは民間の風俗習慣を意味していた。日本でも中古にそれが熟用され、弘仁年間、天長年間の太政宮から出た文書のうちに、或いは越前国の民俗が凋弊したとか、或いは民俗が甚だ弓馬を遠ざかっているとかいう用例を以て現われている。
それは民間の日常生活一般ということである。民間の日常生活一般というとき、それは明らかに特殊奇抜な生活というものと相対している。日々の凡々たる生活の流れを突きやぶるような、何年何月何日、誰がどうかした、というような事件を含まぬ生活事実一般である。
そうするとそれはどうしても繰りかえしの生活を指すことになる。やはり中古の文書に「積習俗を成す」という文句があるように、日常繰りかえす習いがつもり積った慣行習俗、その民間における、常民のものが民俗である。
つまカ民間伝承が民俗を成す。そういう常民の慣行的生活、すなわちどういうところにすまいし、どういうような着物を着、どういうものをどのように食べ、またどのような方式で働き或は休みつつ暮らしを立てているか、さらにまた、人が一生の人生行路の折り目をいかように区切りづけ、いわゆる冠婚葬祭を営むか、はては一年間の時折の折り目にあたってはいかようにその日を億義づける年中行事を催すかなど、或る範囲の複数の平均的人間、つまりこの学問でいう常民が殆ど無意識裡に日々同じように繰りかえし、実践している諸々の生活方式、もしくは毎日ではないが、何歳になると、何月何日が来ると、とかいうふうに、時をきめて、そこの人々代々が同じように繰りかえす類の生活、それが民俗の主たるものである。
そのうちには、これという時とはかかわりなく、行事という類のものでなしに、昔話・伝説・民謡・童唄・語り物・謎・諺などのような、口承的に承けつがれ伝えられている一種の文芸的な文化もある。
また、以心伝心的にとでもいうか、そこの土地の習いとして、或る特定の山や林の中に入ることを畏れつつしむことがあるとか、三つまたの木を山の神様の腰掛木などと称して、これに触れまいとする態度が伝わっていることがある。このような、心の中に或る緊張が、一定の条件に触れるたぴに起るというような伝承も存在する。民俗の中には、そういうものも含まれる。・・・以下略
<以上>
こう説明されると「民俗」というものがよく分かります。先に戻りますが「ブログ村」では「思想・哲学」という大きなカテゴリーに含まれているのですが、身近にある学問でありながら知らない人が多い分野でもあるように感じます。
なぜ人々は祭りに興じるのか、パフォーマンスという言葉で置き換えられてしまわれると、なぜか魂のゆくえに不安を感じる昨今です。
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