今にも雨が落ちてきそうな気配の朝です。いつも思い出すのが竹林のなかをブラブラと歩く哲学者の山田邦男先生の思索をするでもなくひたすらに・・・の姿を思いだします。
Eテレの「こころの時代~生きる意味を求めて~ヴィクトール・フランクルと共に~」 という番組での一コマの山田先生のお姿を思い出すということで、西田先生の哲学の道ではありませんが散歩はなかなか楽しいものです。
さて今朝は何を語ろうか、何を思ったか。なのですが、朝には朝の匂いがあって、森には森の匂いがあります。毎日その漂いの中にいるのですが、今朝は一つの匂いに気がとまりました。
野性的な匂い、辺り周辺を染める匂い、人間的に匂い。
私はなぜそのように感じるのか。
初めての出会いでは気にもとめなかったであろう匂い。
いつ頃からそれを「あの」匂いと認めたのであろうか。
栗の花の匂いは野性的です。
知る者にとってはあの臭いか、とニンマリするでしょう。
男性精液によく似た匂いなのです。この話は体験的経験的な話しから、男女を問わず共通的臭覚的な感覚において共通認識を持つものです。
知らない子供たちは当然その共通感覚の仲間には入れないのですが、同じ人間なのにそうなのです。
意識し認識し自覚できる。
無地の実存、裸の実存として、実存の交わりの中でそもそも人は生きるわけです。
その中でわたしが信仰というものを私が確信する信仰をもつならば、それだけに他の信仰と衝突する、何らかの限界において、常に一致の望みはない世界があります。
これは信仰ではありませんが、今朝の匂いだけは排他的な感情を持とうが認めざるに老いであります。邪念を捨て悟りの境地を得ようが、これは人間的な匂いなのであります。
今朝はそんなことを思いながらブラブラしました。紫陽花の水色、そして有明山に雲の朝です。