思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

宮沢賢治のサソリ

2013年09月05日 | 思考探究

(見出し写真は、Eテレ「ふしぎいっぱい~夏の星~」から)
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 「異常気象と言っていいのではないか。」そんな見出しの記事を載せている新聞もありましたが、洪水、竜巻、高温、・・・自然の織りなす現象に意味づけをしないと気持ちの落ち着きを持てないような感覚にとらわれます。

 現代のように科学的に説明するなどという方法のなかった古代には、理解不能の出来事に対しては物語で意味づけするしかなかった。それが神話になり、口伝の教えになったようです。(これは別枠の話ですが、日本には誦習の『古事記』があります。)

 ギリシャ神話における星物語、星座の物語はまさに夜空の星々の在ることの説明です。
 
 今朝は「宮沢賢治のサソリ」ということで、「星めぐりの歌」で書いたサソリ座の続きの話です。『銀河鉄道の夜』あまりにも有名なこの童話、ネットでは青空文庫でも読むことができます。

 大型客船の沈没事故で無くなった少女が語る父が語ってくれたという「サソリの物語」。

 サソリが自分の身を燃やしている、その炎の色が赤色。

 「赤い目玉のサソリ」と謡われる星めぐりですが、実際はサソリの心臓付近にあるアンタレス座の明滅の赤色。

 天の河を走る銀河鉄道の最終に近づいたころに少女から語られる物語です。

<青空文庫『銀河鉄道の夜』から>

 川の向う岸が俄(にわか)に赤くなりました。楊(やなぎ)の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のように赤く光りました。まったく向う岸の野原に大きなまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗(ききょう)いろのつめたそうな天をも焦(こが)しそうでした。ルビーよりも赤くすきとおりリチウムよりもうつくしく酔(よ)ったようになってその火は燃えているのでした。

 「あれは何の火だろう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだろう。」ジョバンニが云いいました。

 「サソリの火だな。」カムパネルラが又また地図と首っ引きして答えました。

 「あら、サソリの火のことならあたし知ってるわ。」
 
 「サソリの火ってなんだい。」ジョバンニがききました。
 
 「サソリがやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」
 
 「サソリって、虫だろう。」
 
 「ええ、サソリは虫よ。だけどいい虫だわ。」
 
 「サソリいい虫じゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれで螫さされると死ぬって先生が云ったよ。」
 
 「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さんこう云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきのサソリがいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日イタチに見つかって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命にげてにげたけどとうとういたちに押さえられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりはこう云ってお祈いのりしたというの、

  
『ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかい下さい。』

 って云ったというの。そしたらいつかサソリはじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰っしゃったわ。ほんとうにあの火それだわ。」

 「そうだ。見たまえ。そこらの三角標はちょうどさそりの形にならんでいるよ。」

  ジョバンニはまったくその大きな火の向うに三つの三角標がちょうどさそりの腕でのようにこっちに五つの三角標がさそりの尾やかぎのようにならんでいるのを見ました。そしてほんとうにそのまっ赤なうつくしいさそりの火は音なくあかるくあかるく燃えたのです。
  その火がだんだんうしろの方になるにつれてみんなは何とも云えずにぎやかなさまざまの楽の音ねや草花の匂においのようなもの口笛や人々のざわざわ云う声やらを聞きました。それはもうじきちかくに町か何かがあってそこにお祭でもあるというような気がするのでした。

 「ケンタウル露(つゆ)をふらせ。」いきなりいままで睡ねむっていたジョバンニのとなりの男の子が向うの窓を見ながら叫んでいました。

  ああそこにはクリスマストリイのようにまっ青な唐檜(とうひかもみの木)がたってその中にはたくさんのたくさんの豆電燈がまるで千の蛍でも集ったようについていました。

 「ああ、そうだ、今夜ケンタウル祭だねえ。」

 「ああ、ここはケンタウルの村だよ。」カムパネルラがすぐ云いました。〔以下原稿一枚?なし〕

<以上>

 ギリシャ神話とは異なるサソリの語りです。

『ああ、私は今までいくつのものの命を摂ったかわからない、そしてその私がこんどイタチに捕らわれようとしたときはあんなに一生懸命逃げた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうして私は私の身体(からだ)をだまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらイタチも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次には真のみんなの幸(さいわい)のために私の身体をお使い下さい。』

 読みやすいので、私の感情を込めた漢字変換し書きましたが、賢治の創作の物語なんでしょうね。

 『フランドル農学校の豚』という作品で語られる「家畜撲殺同意調印法」に基づく「死亡承諾書」のことを書きましたが、このサソリの物語にも「命の尊厳」を最大限に語る賢治の姿が見えます。

 「毒ある者」

 人は何かしら他人に対する毒を持っているのではないか。それは自分を殺すものでもある。その矛盾性のうちに人はある。このある「在る」こと自体の目覚を訴えているようにも見えます。そんな賢治のサソリです。

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