思考の部屋

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生命への畏敬

2017年04月29日 | 哲学
 ニョキニョキ、パカッと開いたタラの芽、各地で山菜のタラの芽の情報を聞きますが、ここ私の住む安曇野市穂高有明宮城のタラの芽の木にちょうど食べごろのものが現れはじめました。






 タラの芽が開いている状態を擬音化(オノマトペ)して表現するのですが、実にこのオノマトペというものは不思議なものです。見ながら聞く。視覚と聴覚とは別器官ですが、言葉にすることによって感覚の中で視覚と聴覚が重なったような状態になります。

 これはある種の植物との対話、自然との対話で最近マルティン・ブーバーの『我と汝・対話』における樹木との人間のかかわりについて若干触れましたが、生命に対する畏敬の念というものは、万人共通に抱いていないとトンデモナイ屈辱を他者に与えてしまうように思います。

 最近政治家の失言が話題になっています。政治家なので演説会などで話す機会が多いのは確かで、自分の今まさに話す内容については、吟味していると思うのですが、今村元復興相の発言は、その人格が疑われ、政治家としての資質が問われます。ます。
 一般的にそのような話をしない。

 大多数の人々は不愉快な話と思う。

 東京湾沖の大地震であったならば、東北地方の被害を超える事態になっていたことは容易に推測されますが、だからと言って「東北で起こってよかった」などとは口にしないのが常識ある人。

 内心の自由、心の中で何を思うと自由であると人は言いい、自由にもの言うことができる世の中が幸いの世の中だと考えに落ち着いているのだろうか。

 今村元復興相は自由に自分の思うところを述べただけのことだが、多数の人はそれは言ってはいけないことだと批判します。私もそう思います。

 言論は最大限保証されるべき権利である、社会的相当性を欠くヘイトスピーチなどは抑制されるべきものだと多くの人々は思し、それは違法な行為だと規制されるます。

 最近の阿部さんは日本は太平洋戦争中のような軍国日本を目指しているようだ、
 そうそう、4月13日の参院外交防衛委員会で安倍さんは、
「北朝鮮はサリンを弾頭につけて着弾させる能力をすでに保有している可能性がある」
 とまでいったんだ。国民を不安のどん底に落とし、自分はその2日後に、芸能人などを集めた「桜を見る会」を嬉々として開催した。4月15日は「金日成誕生日」だし、「ミサイル撃つXデー」と、マスコミはさんざん煽っていたけれど。

などというサイト記事を読む。

 「煽っていた」と感じている人は記事を書いた作者ですが、これを読むと何か煽られているように思えてします。

 事実というものは直に目の前で見ないとつかめないもので、ニュースなどを見ていると北朝鮮がアメリカの同盟国である日本をも攻撃の対象にしていることは確かなようで、この「煽っている」という意味ではなく、そのように言うところを考えると、政権打倒の垂れ幕を掲げようではないかという言葉が聞こえてくる。

 現代社会は行政行為に透明性を求め、社会は言論の自由の先頭を行くマスコミの情報に耳を傾ける。そして北朝鮮の弾道ミサイルがテレビ画面に映し出され、この背景にはマスコミの煽り行為があるとい話を聞く、という話なのだが「生命への畏敬」というものを誰もが持っていると思うと戦争にはならないのではないか、とも思う。

 カントの定言命法のように多くの人間がよいと思うことに従うのが倫理道徳にかなっているという教育を受け、「みんながそう思っている」「みなさんの生活が危ない」といわれると本当に危ないかもと思ってしまう。
 ある野党の政党は次のように言う。

 政党の共闘とは、多様性が強いみ。政党間の路線、将来像の違いや多様な個人の立場の違い。こうしたことを尊重し、尊敬をもって、大儀で結束することで共闘の輪が広がるのです。

 という、そして議会制民主主義の多数決社会の流れを打倒するには、「野党+市民」の共闘をが大事で、「野党と市民の共闘は政治を変える希望」だと言う。

 なるほど市民とはみんなということだがみんなが一致団結できれば今の自民党政権は打倒できるというわけです。
 みんなという言葉はある程度の囲みの中にあればみなさんと呼び掛けられるが、漠然と「みんな」といわれると観念だけで実際はないものだということを感じる。

 人と人とのつながりが根源的な共通項で結ばれていない限り「みんな」はあり得ないと思うのです。
 今村元復興相の言動が人々を不快にさせるのは何故か。

 多くの人間がそう思うからという理由は多数決の結果であって根本が抜けている。

 思うにわたしは「生命への畏敬」だと思う。今村元復興相の心つくりに「生命への畏敬」という根本的なものがないからだと思う。

 人間の倫理的なあり方の「根本的な転向」、ある意味それは多数決からの脱却です。

 ドイツの哲学者フリードリッヒ・キュンメルという人の著『人間と自然と言葉』(中野優子訳・解説 北樹出版2013.9)に次のような言葉が目に留まった。人間の倫理的なあり方の「根本的な転向」の意味とは、

「人間が自然を、自己の生の発展のための単なる手段とみなすのをやめ、自然が自ら語るためにもっていることに、真摯に耳を傾けること、自然を人間の存在の基盤として、あた、人間の生におけるかけがえのないパートナーとして認めることを意味する。」(同書p21訳者序)

 過去ブログで絵本作家の甲斐信枝さんの話を書きましたが、彼女にとって植物はパートナーです。「やつら」との対話で描き出され言葉が添えられる。「ピクリ」とキャベツについた青虫のさなぎが動く。朝露が太陽光でキラキラと七色に輝く。自然を聞くということは「生命への畏敬」が根源的な隠喩として書き描かれるということです。

 植物を仲間のように「やつら」と呼ぶ、臨床哲学者の木村敏先生ならば、主語的な私が語り描くのではなく、述語的な私が語り描くのであると言いうかもしれない。

 今村元復興相さんには、どうしても私が私がの主語的私が前面に現れているように思う。心の奥底に、根源的な隠喩、言葉を変えれば奏でる私であるならば、「東北でよかった」発言はなく、逆に「♯東北でよかった」は「生命への畏敬」の表象なのだと思う。

 タラの芽のニョキニョキ、パカッと開いた話から「生命への畏敬」を書きましたが、そういう事がそういうものだという暗黙の了解で生きられることに違和感がなくなれば、観念的にはなるが平和というものだと思う。

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