思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

平気で生きる・正岡子規・河野裕子・「NHK視点・論点」から

2010年09月18日 | 宗教

 正岡子規と言えばか大河ドラマ「坂の上の雲」で、歌人であるのを知らない人はいないと思います。歴史上の人物も、NHKの大河ドラマに取り上げられると不死鳥のごとくに時代に蘇ってきます。

 それに比べ、比べる方がおかしいのですが、死して屍となれば絶対に歴史上に蘇ることなどはありません。正岡子規も時代に名を残そうと生きたわけではないと思いますが、あの動乱期、夢をもって一生懸命生きた結果が今日蘇ったということことになります。

 時代に名を残す、善しきにつき、悪しきにつき、人間はどちらの方が可能性が高いのだろうか。そんなことを考えてしまいます。他人に知り得ることそれが歴史に名を残すことになるわけです。

 大多数の人々は、考えてみれば一抹の泡のごとくに時代の流れの中に生じ消えていった存在ということになります。人それぞれに喜びも悲しみもありそれをのり越えて一生を終えます。その記録は、戸籍に、出身校の卒業生名簿に、会社の名簿に、家長だったらゼンリンの住宅地図に・・・・、といろいろ考えてみると出てくるものです。

 多少なりとも足跡は残されてはいるようですが、まあ大河ドラマに出ることはありませんので、埋もれたままにはなってしまいます。
 
 今朝なぜ、正岡子規を取り上げるかと言いますと、夕べNHKで「視点・論点」で正岡子規が取り上げられていたからです。

 題名が「平気で生きる」という題で、多くの方が子規が病苦と戦いながら死んで行ったことをご存じだと思います。

 語られたのは、俳人の長谷川櫂先生です。

 正岡子規は明治35年9月19日に亡くなっていますので明日が命日ということになります。死亡したのがその日の午前一時ごろですから、時間の特定からして深夜のも関わらずみんなに見守られながら息を引き取ったということになります。

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以下番組内の語り。

 わずか35年の人生でした。この命日になると長谷川先生は子規のある言葉を思い出すというのです。それが、題名でもある「平気で生きる」という言葉です。

 子規は俳句や短歌の近代化だけではなく、日本語と日本の文学に関わる大きな仕事を成し遂げた人です。しかし、学生時代に肺結核になり、それ以後は病(やまい)との戦いの日々を送りました。

 特に28歳の時に脊椎カリエスと診断されてからは、寝たきりになり、起き上がってものを書くこともままならなくなりました。子規の一世一代の大仕事はまさに病床でなされたわけです。

 その子規が晩年に、新聞に連載した随筆、『病床六尺』に次のようなくだりがあります。

          

 余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解していた。悟りといふ事は如何(いか)なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。

子規でなくとも多くの人が悟りというと、死に臨んでジタバタせず平然と死んで行くことと思っているはずです。昭和の戦争中は、この考え方が歪められて、お国のために潔く命を捨てることが強要されたこともありました。

 志貴のこの文章は、亡くなる三か月前に書かれていますが、子規は刻々と迫ってくる自分の目の前にして、「平気で死ぬる事」という考え方は、間違っていたと気づいたわけです。

 では悟りとは何か、ということになるのですが、子規は悟りとは「如何なる場合にも平気で生きていくこと」と言うのです。どんなに苦しくとも平気で生きていくことこそ悟りであるというのです。

 わずか数行のほんの短い文章にすぎませんが、この数行の中で、天地が引っくり返るような人生の大転換が、起きているわけです。子規か罹った脊椎カリエスという病気は結核が脊椎を侵す言わば結核の最終段階です。

 体の奥にある病巣が化膿し、大量の膿が出口を求めて肉を破り、皮を破って体に穴をあけます。晩年の子規も、腰や背中に大きな、がらんどうの様な穴がいくつも開いていました。

 そこからあふれ出る膿を母親のやえと妹にりつが拭いてやるのですが、傷口にこびり付いたガーゼを剥がそうとすると、激痛が走る。そのたびに子規は大声を立てて泣く、泣けばいくらか痛みに耐えられるのです。

 子規はこうした地獄のような苦しみに耐えかねて、実は一度、自殺を企てたことがありました。亡くなる前の秋、母も妹も留守の時、枕元には原稿を綴じるための小刀など千枚通しが置いてある。このことは子規の日記『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』に書いてあります。子規には藤野琥珀という四歳年下の仲のいい従姉がいたのですが、数年前ピストル自殺をしました。

 その琥珀の幻が現れて、「こっちへこいよ」と子規を呼んでいる。しかしこの時子規は、
自殺をしなかった。言いかえると平気で死ねなかった。死が恐ろしかった。こうした苦悩の果てに、子規は「平気で生きること」こそ悟りであると気づくのです。それは死の三ヶ月前のことでした。

 では「平気で生きること」と「平気で死ぬこと」とはどう違うのか、「平気で死ぬ」つまり死を恐れぬというと潔くてカッコいいことのように聞こえるのですが、やはりこれは歪んだ思想と言わなくてはなりません。

 と言うのは、人間は生き物である以上、、あくまでも命の側に立っているからです。そうした人間お前に、まさに子規がそうであったように死が恐れるベくものとして立ちふさがる場合があります。

その時は死を大いに恐れたり、大いに恐れながら普段通り淡々と生きていく、これが「平気で生きていく」ということではないでしょうか。

 私自身(長谷川櫂)この言葉に何度も励まされてきました。ついひと月前のことですが、8月12日に歌人の河野裕子さんが亡くなりました。

          

 たっぷりと真水を抱きてしづもれる 
        昏(くら)き器を近江と言へり

 河野さんにはこのような、琵琶湖を読んだ歌がありますが、河野さんはここに詠われた琵琶湖のように、そこから流れ出す淀川のように、ゆったりとしたおおらかな心で家族や日常生活を一つ一つ歌にしてきた人です。

 ところが十年前に乳がんが見つかり、手術をしたのですが、一昨年再発しました。普通ならば何もかも放り出してもおかしくない状況ですが、河野さんはその後も普段通りに、家族の世話をしながら意欲的に短歌を詠み続けました。

 その河野さんの晩年の歌に子規がたびたび登場するのです。『葦舟』という最後の歌集に、

          

 子規のこころに
   庭を眺めて臥してをり
     人ごゑすれば人の懐かし

この歌は、子規が死の5日前、もはや筆を取ることもできず、口述筆記した9月14日の朝という文章を踏まえています。その中に子規が布団の中に横になったまま庭の秋草を眺めていると、納豆売りの声が聞こえてくるところがあります。

 庭の生け垣の向こうで、納豆の声で出てきた近所の人の声もしています。やがて自分がいなくなることを知っている子規は、横たわったまま懐かしむかのようにこの世の声に耳を傾け・・・という場面です。

 同じように死を前にした河野さんの脳裏に、ある時子規のこの場面が浮かんだに違いありません。子規のこころに庭を眺めて臥しており、とはそういうことです。

 そしてどこからか聞こえてくる誰かの声を、それは夫の声かも知れないのですが、はるか遠くから懐かしいものとして聴いている。懐かしいという言葉は優しい言葉ですけれども、この言葉にドキッとします。

 というのはこの言葉は普通、昔の人が懐かしい、故郷が懐かしい、と言うように単に時間がたったものに使うのですが、ここではまるで死後の世界からながめているように使っているからです。

          

 とは言へど
   五歳のころより早朝に
     漢籍学びし正岡常規

この歌は河野さんの孫が受験勉強しているのを見て詠んだ歌です。あなたも大変だけれど正岡常規君も、これは子規の本名ですが、五歳の時から朝早く起きて漢文の勉強をしたのよ、というのです。

                   

 なでしこの画を一枚飾るゆゑ
       暮らしの中にいつも子規あり

子規は水彩画が得意で、草花やくだものの絵を残しています。河野さんの家にもなでしこの絵が飾ってある。それが子規を思い出す縁(よすが)となっていつも暮らしの中に子規あり、というのです。

 こうした歌を詠んでいると、河野さんも闘病生活で、「平気で生きる」と言った子規に励まされ、子規に心を立て直されたことがあったのではないか、と思うのです。
 
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番組での長谷川櫂先生の言葉をそのままおこしました。私の私見は入っていません。

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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
はじめまして。 (市堀玉宗)
2010-09-25 11:09:09
ブックマークをしていただき恐縮です。ありがとうございます。
NHKでそのような番組がされていたとは知りませんでした。長谷川櫂氏は私とほぼ同年代の、現代俳句界を牽引するお方ですね。
子規は病苦と死への恐怖の只中で「平気で生きる」道を歩みました。
私は煩悩多き一人の人間、そして仏弟子として「平気」で生きていこうとおもっています。
これからもどうぞよろしく。
合掌
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ありがとうございます。 (管理人)
2010-09-25 20:13:14
>市堀玉宗様
 コメントありがとうございます。
 無駄な一日はなく、常に何かに引き合わせていただいています。視点・論点というNHK番組がこんなに個性豊かな番組であることを知りませんでした。形式的な語りではなく温かみのある論者の語りにいつの間にか引き込まれています。

 こういう題名ではと思う時もあるのですが、観ると引き込まれてしまいます。「平気で生きる」は題名からみる気でいましたが、みるうちに引き込まれ、内容を起し知らせねばという衝動に駆られました。

 立ち寄っていただきありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
返信する
河野裕子先生 (西野いりひ)
2010-12-11 16:26:11
長谷川櫂さん、はじめまして。
あなたの書かれた「俳句の宇宙」に二度であいました。一度目は俳句をはじめたばかりのころですから、1991年ころ。二度目は去年歌人の山下整子が東京の古本屋でかってきておみやげにくれました。ふしぎな気がしました。というのは、わたしたちはみな、1954年うまれのともだちだからです。九州の筑後では、同級生をともだちとよびます。ですから、なれなれしくもともだちよばわりをどうかお許しください。

さて、本日旬刊アクセス解析をやっていて、「俳人 裕子 死亡」という検索用語でどなたかが拙ブログへおいでくださっていたことから、必然的にここへ導かれました。どなたか存じませぬが、まことにありがとうございました。
これまでに二回ほど河野裕子先生について文章を書いていますが、深く探求しようとは思っていませんでした。ですが、ここへきて、気になり始めました。
なにかはわかりませんけれども、大きな予感めいたものが、河野裕子先生にはおありだったようですね。
というのも、私は先生の選評を書き写していて、1999年7月には須賀敦子さんの本にまで触れた言葉を寄せてくださってました。
新聞投稿歌への評はごくごく短いものですが、それでもぴしゃりと的を得たことばではっとさせられた。振り返れば、わずかふた夏の投稿でありましたが、非常に鮮烈で、わたしはいまも胸がさわぎます。
なのに、なぜ投稿をやめてしまったのでしょうか。おそらく連句へのぼせてしまったからでしょう。

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