老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

湖北の旅 その②  ~菅浦/メタセコイア並木~

2021年04月11日 19時39分19秒 | 旅行/色々な風景

 近年「隠れ里」として有名になった菅浦(すがうら)は、現在は長浜市西浅井町に属しますが、琵琶湖最北部の奥琵琶湖に突き出た葛籠尾崎(つづらおざき)西岸の入江に位置する僅かな平地にある集落です。
 1971年(昭和46年)に菅浦の山間部に奥琵琶湖パークウェイ(県道512号)が開通するまでは、船でしかアクセスできない周辺地域から隔絶された集落だったようです。

 その歴史は、奈良時代にまで遡ります。
758年(天平宝字2年)に即位した淳仁天皇は、764年(天平宝字8年)の藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱で道鏡や孝謙上皇に負けて淡路国に流されたとされていますが、淡路は「淡海」(近江国)であるという説もあり、淳仁天皇はこの菅浦に幽閉地で憤死したといわれていて、須賀神社の祭神として祀られているようです。

 何れにせよ、この菅浦を有名にしたのは、須賀神社に秘蔵されていた「開けずの箱」と呼ばれる唐櫃の中に保管されていた菅浦文書(現在は国宝に指定)と呼ばれる古くは平安時代中期(1041年)から明治初年までの文書です。

 これにより、周辺の集落との領地を巡っての激しくて長期にわたる争いや、その中で菅浦が団結を強めるために自治組織を作り上げ維持してきた歴史が詳しく判ると共に、険しい地形によって周辺地域から隔絶された菅浦村落での漁村生活が記録されていて、中世の自治形態である“惣(そう)”の伝統が今もなお継承されている貴重な集落であることから、この地が中世の伝統をとどめる地域として脚光を浴びるようになりました。

 そして、現在では「菅浦の湖岸集落景観」として国の重要文化的景観として選定されるとともに、日本遺産として認定された「琵琶湖とその水辺景観 - 祈りと暮らしの水遺産」の構成要素にもなっています。

 現在でも100戸ほどの小さな集落ですが、東西の道には、四足門と呼ばれる茅葺きの門が残っています。る。かつては、ここで村に入ってくる外来者の監視にあたったと言われていますし、菅浦文書が残されている菅浦郷土資料館があったり、急な坂道の上には須賀神社が鎮座しています。

 時間が十分に取れなかったので、早歩きで回りましたが、十分な時間を割いて訪れたい場所です。


 菅浦を終えてからは、北陸自動車の木之本IC経由の帰路となったためか、高島市マキノ町に戻りメタセコイア並木に立ち寄りました。ここは延長約2.4kmにわたりメタセコイアがが約500本植えられていて、秋の紅葉が有名ですが、この時期はやっと芽吹き始めたばかりで見応えもなくトイレ休憩という感じでした。(まさ)

<菅浦>

途中で車窓からの景色

西の四足門

同上の棟札 最近修理された様です

須賀神社鳥居

創建は1250年以上前のようです

参道

拝殿 手前の手水の所でスリッパに履き替えです

本殿

近くの山の風景 まだ桜があります

参道を下る すぐ前に琵琶湖があります

集落の中の共同洗い場でしょうか

この近くの民家にはこのマークが多いです。 防火のおまじないでしょうか

長福寺跡

港近くの石垣

同上

港近くの湖岸 長い板は「ウマ」とぴいう洗い板のようです

竹生島 集落の端から直ぐ近くに見えます

海津大崎の桜並木が遠望できます。 この辺りは入り江が多くて近くに見えても道路距離は結構あります

<メタセコイア並木>

やっと芽吹き始めたという所です