年末に京都の毘沙門天堂門跡を訪れた時に、宸殿玄関で見掛けた衝立(ついたて)に「夢」という大きな字が書かれていて、その前に置かれた竹器に植えこまれた生け花のバランスの良さに暫し見惚れていましたが、後で考えたのは、見惚れていたのはそのバランスの良さではなく、「夢」という言葉に対してではなかったのかということでした。
そう言えば、時々は睡眠中に訳のわからない夢を見ることはありますが、そんな夢ではなくて、起きていても見る様な将来に対する甘い期待のこもった「夢」です。
長い間夢を見ることはなかったですし、「夢」という言葉を口にするのも久しぶりのような気がします。
昔を振り返れば、記憶に残っている次のような歌と共に、色々な「夢」を見て、それが人生の節目節目での区切りや励ましになったと思います。
・夢であいましょう
・いつでも夢を
・圭子の夢は夜開く
・夢で逢えたら
自分が年老いたこともあるでしょうが、それ以上にこの国の政治が政治屋どもの目先の私欲と自己満足を目指す場となり、国民もこれに合せるように目先の利益を幸せと思い込んで満足の対象とするようになり、国全体として将来のことを考えなくなると共に、国の躍動感も無くなったといえるのではないでしょうか。
そんなことを考えていると、今の若い人、特にエリートと呼ばれる様な人達はどのような夢を見ているのか気になって仕方ありません。
まさか、官僚になってバカな政治家どもに忖度を重ねる事で、我が身の出世や安泰を夢見ているというようなことはないとは思いますが・・・
今一度若い人誰もが、「夢」が見られるような生き生きとした世になって欲しいと願う新年です。
少しでもそんなことを思いながら、年寄りの愚痴を続けていきたいと思います。(まさ)