老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

「恥」と「迷惑」 その①  ~廉恥(恥を知る心)~

2018年05月21日 20時37分15秒 | その他
 最近の政治家や官僚だけでなく、色々な事件で当事者が謝る場合に、頭を下げて“ご迷惑をお掛けしました”と詫びる場面をよく目にしますが、これにはどうも違和感を覚えます。

 こちらとしては、迷惑を掛けられたとは思ってもおらず、確かにその行為から不快感を受けますが、むしろその行為が余りにも見苦しいので、“この人は「恥」を知らないようだが、本当に日本人かいな?”と思っている部分の方が多いでしょう。


 ということで、テニスも出来ずに自宅に居る時間が長い身としては、「恥」と「迷惑」ということについて少し考えてみました。


 「恥」については、大辞苑によれば①恥じること、②名誉を汚されること、③恥ずべきことを知ること、名誉を重んずることであると記されており、これに関連して “心が清らかで恥を知る心である”のを「簾恥(れんち)」と言います。

 これに対して、“恥を恥とも思わず平気でいる”ことは、、「破廉恥」と呼ばれ、「破廉恥な人」「破廉恥な振る舞い」という使い方をされますし、或いは「恥知らず」「恥さらし」或いは「無恥(むち)」といって嫌われます。

 この「廉恥」(“恥を知る”こと)は、日本人の古来からの美徳とされ、日本人の伝統的な美徳とされてきましたし、ルース・ベネディクトは著書「菊と刀」で日本の文化を「恥の文化」と見做しています。

 元々は、「恥」とは自分の理想とする姿に照らして自分の心の規範としてあるはずのものが基準なのです。その意味では、「私恥」とでも言うべきものでしょう。

 しかし、武士社会の中で“敵に後を見せる”ことや、“主君の命に背く”とかいう他人の眼から見た恥(言わば「公恥」とでもいうべきもの)が重んじられるようになり、その公恥の概念を道徳的規準として教育にも取り入れるようになり、第2次大戦に当っては、“戦争に反対すること”とか“生きて虜囚となること”とかいうようなものも「公恥」との考えが中心になりました。

 この為、敗戦を機にこうした「公恥」という考えは国粋主義、軍国主義時代の悪習とのレッテルを貼られ嫌悪されるようになりました。
これは、当然のことでしょうが、これと共に所謂「私恥」の大事さも忘れ去られたように感じるのは私だけではないでしょう。

 やはり、昔からの日本人の美徳として“人間として自分を律する基準としての「恥」「廉恥」を大事にすること”は必要なことでしょう。
逆に、破廉恥な人が厚かましくも「美しい日本」などと堂々と言うのを聞くたびに虫唾が走る思いです。

 恥はかいて知るものですし、恥をかくことを怖れることはありません。恥をかいても自省し、自らを改めればいいのでしょう。(まさ)