老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

再び、原発推進に関する技術者・科学者の責任を問う

2018年03月11日 19時27分21秒 | 原発関係
 あの福島第1原発の事故発生から早くも7年が経過しました。
しかし、未だに5万人以上の方が、故郷に帰れずに避難先での生活を余儀なくされており、その多くは帰還を諦められたとも報じられ、高齢者の孤独死や自殺の多さとともに、若年者の甲状腺がんの危険性なども報じられています。
 改めて、被災された方にお悔やみを申し上げると共に、原発事故の悲惨さを認識する必要を感じています。

 今日は少し長くなりますが、原発に関する思いを記したいと思います。

 このブログでお判りのように、私は原発に対しては「反対」の立場です。
小泉元首相たちによる「原発ゼロ・自然エネルギー基本法案」を呼びかけに対しては、賛同の意を表しましたが、聞くところによるとこの産経新聞などは、この法案に対して“亡国基本法案”とのレッテルを貼って反対表明をしたようです。

 確かに、産業界におもねる産経新聞としてはこのような態度を取るでしょうが、電力系労組も自分達の生活レベルを守るのが最大の目的のようで、同様の意向のようです。
これを受けて、3月9日に立憲民主/共産/自由/社民党が共同提案した「原発ゼロ基本法案」についても、希望の党/民進党などは同調せず、この法案は否決の見込が大きいと言われています。


 このような原発関係の記事を書くたびに思う事ですが、これらの原発推進の立場を取る人たちは、福島原発の事故の大きさと被害者の悲惨さをどのように捉えられているのでしょうか。
先日も書き込んだように、被害者を一人称や二人称と感じて受け止めるのではなく、三人称として無機的な数字として扱っており、表面だけの経済性有利の立場を取られることは明白でしょう。


 特に私が理解しにくいのは、原発に関係する技術者や科学者などの態度です。
原発推進の側に立つ技術者や科学者の精神構造や良心はどのようになっているのでしょうか?


 まず、原発を巡る大きな問題点を挙げてみると、

◆原発事業なるものは本当に確立された技術なり産業なのでしょうか?
・福島第1原発の事故に見られるように、非常に厄介で危険な放射性物質を用いるのにも拘わらず、例え原因は天災事変とであろうとも、日本で発生した過酷状態に対応できなかったし、如何に安全基準を高くしても今後も完全な安全は保障されないでしょう。

・万一の場合の事故に際しても、発生後7年も経過しても、正確な状況把握が出来ず、処理方法が未定。

・更に、使用済み核燃料や原発廃炉などに伴う放射性廃棄物の処理方法が一切決まっていない(トイレのないマンション説)。いざとなれば、地中深くに埋設するつもりでしょうが、この日本に火山や地震の影響を10万年も受けない様な場所があるとは思えません。

◆原発の「安全神話」の崩壊
・原発を推進するために、いつの間にか“原発は安くて、安全な電源”という安全神話がでっちあげられ、政府や産業界はこれを盾にして、過疎地自治体に各種の交付金や固定資産税を餌にして原発立地を押し付け、原発依存への体質を作り上げてきました。

・福島第1原発の事故で、この安全神話が虚構であったことが明らかになるとともに、これを受け入れた地元や周辺の多くの人が、住んでいた土地から追い出され、未だに戻ることもできない状態にあるのです。

・特にこの神話なるものについては、原発の危険性を理解していたはずの技術者や科学者が、そのようなことを指摘せずに、自分の立場を擁護するために黙認していた(或いは信じたいと思っていた)としか考えられません。
仮に「安全神話」なるものを本当に信じていたという技術者や科学者がいたとすれば、余程の研究者バカか政治家並みに目先の金銭感覚だけに頼る、技術者や科学者の名に値しない人達でしょう。

◆想像力の欠如
・原発廃棄物は場合によったら安全レベルになるのに10万年も要すると言われていますが、10万年という年月の長さを考えたことがあるのでしょうか?
現在の関係者の寿命は勿論のこと、現在の運営会社などがそのまま存続しているとはとても考えられません。

・むしろ想像以上の天地変動が起こる可能性の方が強いでしょうが、そのような場合に原発や廃棄物が子孫たちに及ぼす影響はいかほどか測り知れませんが、だれが責任を負うのしょうか?


 このような、素人の私でも指摘できるような、色々な問題点があり危険性に満ちた原発を、貴方達はこの日本で、開発・設立し稼動させてきたのです。

 “未知の分野への挑戦”、“国策として要請された”或いは“生活の為”というような言い訳は通用しないでしょう。このような言い訳が通用しないことは、第二次大戦後の反省で明らかな筈です。


 確かに、原子力というのは魅力的なエネルギーかも知れませんが、これを有効利用しようと志すなら、まず廃棄物の完全に安全な処分方法を確立した上で、尚且つ如何なる天災事変に遭遇しても安全だと言いきれるような活用技術を確立してからでなければならないでしょう。

 それが、広島・長崎の原発、その後の核実験による被害、チェリノブイリィ/スリーマイル原発事故、更に大地震発生に伴う福島第1原発の事故などを経験した人類の英知であり、原子力の平和利用を志す技術者や科学者が第一に心がけることだと思います。

“その内に処理方法はできてくるだろう。とに角見切り発車でも自分達の仕事を確保しよう”とか、“自分たちや、人類の歴史は10万年もないのだから、先のことは考えなくても良い”とかは、くれぐれも考えないで下さい。

 色々な既得権益や利権を守るために、政財界が未だに「安全神話」を盾にして、原発依存を諦めずにいるだけでなく、厚顔にも海外への原発輸出にも積極的な姿勢を示していますが、このような行動は世界の動きから大きく取り残されるだけでなく、福島第1原発事故の当事者であることを忘れた、愚かな行為だと笑い物になるでしょう。

 これらの動きにストップをかけ、速やかに全ての原発を廃炉にするためには、専門的な立場から「安全神話」を否定する以外にないでしょう。
それこそが、専門的な科学技術に携わる技術者や科学者の社会的な役割や良心ではないでしょうか。(まさ)