和みの食卓

大好きな人たちと食卓を囲む暮らしをしたい。
新米母ちゃんの日々ノート。

ただいま師走

2008年01月11日 | 日々ノート
新年明けましておめでとうございます。

でも、私は今年は旧暦でいこうかと…。
だからまだ、師走がはじまったところです。
大掃除もこれからです。(言い訳?)

旧暦って日本の季節にあった、素晴らしい暦。
今でも、沖縄などでは新暦と旧暦を併用しているとか…。
そんなふうに旧暦を楽しむ人が増えたら、いろいろなことが変わりそうな気がして
まずは良く分からないなりにも、自分自身から旧暦に親しもうかと思っています。
食べ物の旬で言えば、時期でもないのに七草を作らなくても良くなったり
七夕にはちゃんと天の川を眺めることができたり
本来の日本人の四季に対する細やかな感性を、少しでも取り戻せるかなぁ…と。
旧暦仲間を増やして、日本を変えよう!(笑)
要は、カレンダーの併用に慣れればいいんですよね。

とはいえ、まだまだ旧暦仲間は身近におらず、年末年始は一般的に過ごしました。

楽しかったのは、暮れのエスタスカーサさんでの餅つき大会。
一軒家を改装した広々した空間は、集会所のようでもあり、子ども達には絶好の遊び場。
本当にたくさんの方が集まっていて、友達3人+子連れで参加したのですが
子ども達は勝手に延々と遊んでくれて、久々に開放的な気分になりました。
一緒に行った友達とは、本当にゆっくりいろんな話ができて、大事な時間を過ごせました。
お餅もいっぱい!食べました。
エスタスカーサのスタッフの皆さん、地域の餅つきボランティアの皆さん
本当にありがとうございます。ごちそうさまでした。
娘はいったいいくつ食べたか分からない程、食べていました。
でも気持ちは分かる…。つきたてのお餅って本当においしいですよね。



エスタスカーサさんのような地域に開かれたおうち、みたいな場所が
いたる所にあればいい。
作っていきたいと思います。
何か始めたいのでとりあえず、自宅をもっと開放するようにしたいなぁ、と。
ということで、今年は友達を我が家に呼んで
一緒におせちを作ろう会をしました!

いつもひとりで作っていると、だんだん気が滅入ってくるおせち料理。
でも、作らずにお正月を迎えるのは、なんだか寂しい。
今回は4人で手分けして、立派なおせちを完成させることができました!
手先の器用な友達が、菊花かぶとか、野菜の煮物の飾り切りをして
美しく仕上げてくれました。
ごま豆腐なんて、わたしはひとつも手を出さずにできちゃいましたから!
それぞれパッキングして夫の実家に運び、元旦の朝に
ウキウキと自前の重箱にもりつけてみましたよ。



今回は実家で仕出しのおせちを頼んであったので
そこに肉、魚、砂糖はたっぷり使ってあるだろう、ということで
私たちの自前のは、野菜だけの「ベジおせち」です。
伊達巻きはがんばりました!かぼちゃと豆腐でできてます。
またこうやって、みんなで集ってお料理したい。
これが一番安くつくし、楽で楽しいし、子ども達も友達と一緒で嬉しそう。
しない手はないですよ。オススメです!

でも年末年始はやはり、いつものように食べ過ぎて
調子を崩してしまいました。
毎年、バカだなあと自分に呆れてしまいます。
やっと持ち直してきたので、旧正月は質素にいこうと思います。
そういえば、こころんに野菜を届けていただいている、大分のなずなさんでは
断食会で年を越すそうです。
体にとってはその方がどれだけいいか分かりません。
私は断乳の時に断食(と言っていいのかな?)をしました。
3食くらい抜きましたが、意外と平気でした。
この時はおっぱいが張るのが嫌で、食を控えたのですが
結局おっぱいはパンパンに張って、効果があったのかなかったのか…。
普段に断食するなら空腹よりも、食い意地をどう克服するかが問題ですが…。
たまに一食だけでも抜くと、やっぱり体がすっきりして調子が良くなるのが分かります。
絶食や断食は、それをする前に、まずはちゃんとしたものを食べて
体のバランスをとることが必要だとは思いますが…。
以前の私は一食でも抜くとフラフラでしたから。
食べ物に執着しないことは、本当に自由なことです。
そうなることを目指して、バランスをとるように毎日を過ごしたい。

今の日本の状況を見ていると、末期のポンペイの事を考えてしまいます。
前にNHKの特集でやっていたのですが、イタリアのポンペイが
火山噴火で街ごとなくなってしまう直前
人々は贅沢病にかかっていて、毎日のように食べきれない程
ごちそうを用意して、吐きながら食べていたとか…。
屋敷には、美しい専用の「吐き部屋」まであって、ごちそうを並べている部屋には
食べ物が落ちていても気にならないように、床に食べ物の絵を描いたりしていたそうです。
食べきれないものを日々どこかからか運び、捨てる。
今、自分の周りを見ても、同じような風景が目に入ります。
子どもには見せたくない風景。
本当の「贅沢」ってきっとそうではないと思います。

まずは私から。天変地異が起きる前に。
暴飲暴食で心を改めた年明けでした。

里山保育

2007年12月26日 | 日々ノート
基山町のころころ保育園に、行ってきました!
園長先生のお話を聞いてから、絶対いってみようと思っていました。
自主的な保育園をしたいね、と言っている友達も一緒に、勉強させてもらいました。

周りはのどかな畑が広がる風景ですが、園長先生のお話にあったように
新しい大きな道や、必要以上に整備されて意味なく広い公園ができてて
もとの風景はもっとのんびりしてたろうに、と少し残念な気持ちになりました。



とても寒い日でしたが、子どもたちは元気!
道行く野良仕事のおばあさんや、散歩中のおじいさんたちに挨拶しながら
よくおじゃまするという農家のお家を目指して、走ります。



農家のお家に遊びに行って、チャボをみせてもらい、裏庭の柿をみんなでおねだり。
はるもひろも、お兄ちゃん達にまじってかぶりつきます。
そうそう、なんだかみんな同い年とは思えないくらい大きくてしっかりしてるなあと
思っていたら、園長先生の勘違いで1つ上のクラスに参加してしまってました。
でもとっても楽しかったです。
ひろは、はるよりも小さいので、ちょっときつかったみたいですが
お兄ちゃん好きだから、楽しそう。
はるは、後半はしっかり駆け足についていって、体いっぱいで遊んでました。



道々、いろんなところに寄り道したり、枯れ草を投げっこしたり
高いところから飛び下りたり、よじ登ったり
泣いたり、助け合ったり。
園長先生の講演会でのお話にあったように、つまらないケンカはありません。
広々したところに行くと、ケンカはしないそうです。

園長先生のお話で印象深かったのは「子どもは今を生きている」ということです。
大人の浅知恵で、子どもが「体験すること」を邪魔してないか?ということ。

道に迷うこと。
冬は寒い!ということ。
渋柿は渋い!ということ。
雨に濡れること。
汚いウンコみたいな幼虫がてんとう虫になること。
子どもが「思わず」「自ら」動くこと…。

子どもよりも、私たち大人がまず、賢く生きましょう、と。

「しつけ」は大事。
でも、体感すること、それによって感動することの邪魔をしてはいけないなあ。
いろんな事に、ついつい手を出し過ぎてしまう。
夫とよく話すのは、大人に対して子どもの数が少ないせいもあるよねっていうこと。
いっぱい子どもがいたら、ひとりひとりにそこまで手をかけられないし、
結果的に子ども同士で、うまく関係をを築いていくのでしょう。
兄弟がいっぱい欲しい!みんなで疑似大家族を作りたいです。

それにしても、ころころの子ども達は、元気で野性的でほれぼれしていまいました。

クリスマス祭

2007年12月24日 | 日々ノート
クリスマスのことの続き。

知人からクリスマスソングを集めたCDアルバムをもらいました。
毎年毎年、同じような内容で、よく売り出すなあとちょっとあきれてしまうけど
やっぱり、いい歌はいいなあ。「ラストクリスマス」を口ずさんだりしてしまう。

こんな風に楽しめるのは、今わたしが情報をかなりシャットアウトしてるせいだと思います。
テレビはほとんど見ないし、ラジオも聞かないし、新聞はとってないし
繁華街やスーパーマーケットに買い物に行くことも少ない。
このごろは持ってるCDすらほとんど聞いてない。


過ぎたるは及ばざるがごとし、で
毎年、特にクリスマスは、ラジオを聞いてたり、町中を歩いていると
「もういい加減にして」と言いたくなるくらい、クリスマスソングの嵐で
お腹一杯の食傷気味になってしまう。
12月に入る前からツリーのピカピカの飾りをつけたりしてるのは
楽しみをすり減らしてるようなものじゃないかしら。

以前はラジオが好きだったし、仕事中も聞いていたので
クリスマス時期には、逆にクリスマスとは全く関係ないものをたまにはかけてよって
言いたくなってました。
そんなラジオ番組があれば、聴きたい人は多いんじゃないかなあ。
曲をかけてる人も、毎年、嫌気がさしていたりして…。

本来、楽しいことなんだから、楽しい範囲でやり過ぎず楽しむ、って大事です。
お金を使うことが、楽しむことって思い込んで、楽しみ方を忘れてしまったのかもしれない。
自らも省みつつ、みんなが本当に楽しむことを思い出せればいいなあと思うクリスマスです。

冬の風景とクリスマス

2007年12月23日 | 日々ノート
先月の、こころんでのワークショップ「はじめてのシュタイナー」で
教えていただいた「トランスパレント」。
冬の季節の窓飾りだそうです。なんとなくクリスマスの雰囲気。
ベランダにかかっているのは、今年もしました、干し柿。
ここ数年、嫌いだった果物の「柿」が大好きになり、干し柿作りは欠かせません。



この風景、日本のクリスマスっぽくて、好きです。

わたし自身はキリスト教には、何の関わりもありません。
だから、大人になるにつれて、クリスマスと聞いて浮かれる気持ちを持ちながら
なんだか外国カブレのようで、恥ずかしいとも思っていました。
商業主義の「買え買え合戦」のようなところは嫌いだけど
綺麗な街のイルミネーションを見ると、ちょっと浮き立つ気持ちになったり。
電力の無駄遣い&木にとっては本当にはた迷惑な話ですが…。
それに最近のイルミネーションは、いろんな事と同じで
エスカレートしすぎな気もしますが…。まあ、それはともかく。

でも以前に「神道」についての本を読んだ時に
異国の文化を、自分達流に取り入れ新しい祭を作ってきた歴史を考えると
クリスマスは、最も新しい、日本の「祭」化している、とあって
なるほど~と、自分の気持ちを肯定することができました。
「クリスマス」に宗教的な関わりがなくても、浮き浮きしていいのかなって。
お祭なんだから。
祭というか、節分なんかと一緒で、季節の行事みたいなものかな?

うちでは、リースとかツリーの飾りはしませんが、毎年クリスマスの絵皿を出します。
一枚はつきあっていたころに夫がくれたもの。
もう一枚は、娘が生まれた年の記念にと親戚から贈っていただいたもの。
今年はリビングルームのタンスの上に。深いブルーがキレイです。


伝えたい、こと。の続き

2007年12月17日 | 日々ノート
「9つまでは神のうち」

「3才までは神のうち」
というのは聞いたことがあります。
昔は3才までに亡くなる子どもが多くて
数え3つの歳になれば、一安心ということで
神様に感謝のお参りをしていた、とか…。

「子育て自然大学講座 第一回 自然に産み育てる」
というテーマで、佐賀県基山町にある、ころころ保育園の園長先生と
福岡県春日市にある、春日助産院の院長先生のお話を聞くことができました。

「9つまでは神のうち」は院長先生のお話に出てきました。
私ははじめ、院長先生は「自然分娩」の話をされるんだろうと思っていましたが
全然違って、というか「自然分娩」にはおさまりきれず
とても大きく深い話をしてくださいました。
時間があまりなかったようで、のっけからストレートに行きます、と
話がモジモジせず、ずんずん踏み込んでいくのに驚いて
心の中で「うわ~」と思ってばかりいました。
院長先生のお話は、私にとっては分かりやすかったです。
もしかして、同じ左脳派なのかな?

子どもは9つまでは、大人のいる「人間界」と
スピリチュアルな「精神世界」との中間にいる。
それが「神のうち」ということ。
子どもが人をじっと見ている時は、その人のオーラを見ている。

「子どもに好かれる人っていますよね」と先生。
「きっとオーラがキレイなんでしょうね」
オーラは魂の本来の輝きと言ってもいい。
今は、たくさんの傷で魂の周りにかさぶたができて
輝きが表に見えない人が多い、と。

「自然に産み育む」ということについては

今は、普通に暮らしていたら皆「不自然」になってしまう。
暮らしの中で工夫しないと「自然」には近付けない。
外に出て歩くこと、日を浴びること、きちんと食べること。
そうやって自律神経を整えてやらないと、生物として間違った判断をしてしまう。
日本は世界でも自殺の最も多い国で「うつ大国」ですよ、と。
生物として「生きる」と反対方向の判断をしてしまうのは人間だけだし
それは、日々の「不自然」な暮らしがつくった
自律神経の乱れから出た間違った判断。

「魂」や「心」ということを
今、最先端の科学者さんがだんだん言いはじめているそうです。
科学者といえば目に見える「現象」しか信じないという
「唯物論者」がほとんどだそうですが
今後「サイエンス」はどんどん「スピリチュアル」と統合されていくだろう、と。
そういえば、般若心経の現代語訳本「生きて死ぬ智慧」を書かれた
柳澤桂子さんがテレビに出演された時に
「宗教はいつか科学で説明がつく時がくる。今は科学がそれに追い付いていないだけ」
というようなことを言われてました。

院長先生は「肉体」について
どうも「自分」のものではないらしい、と。
地球から借りているもののようだ、と。
でも「自分」に借りた覚えはない。
じゃあ、誰が借りたのか、というと、それが「魂」。
「魂」は何かしたいこと、やらなきゃいけないことがあって
肉体を使って、この地球という世界に現れた。
でも、ちゃんと動くはずの「自分」が
「魂」の意図しない、間違った動きをしている。
「魂」と「肉体(自分)」の間にあるのが「心」であるらしい。
その間のやりとりがうまくいかない、
「自分」が分からない、「魂」とうまく連絡がとれない。
それが自律神経の乱れ、というもの。

そして現代社会のおかしな現象についても
今ニュースをにぎわせている少年犯罪や虐待…。
全てひとりひとりの心の持ち方を、現している鏡。
自分と関係ない、かけはなれたことではない。
私たちは地球に育ててもらっている「細胞」なのだから。
だからこそ、ひとりひとりの心の持ちようが変われば
絡まった糸のような問題は、ドミノが倒れるように
一気に解決していくだろう、と。

子どもはエネルギーのかたまり、光りそのもの、なのだそうです。
その光がにごるような、もの、場所、事から
なるべく遠ざけるのが大人の役目。
そのために自分の自律神経を整える、暮らしの工夫をしていかなければ。
ミクロとマクロに意識を向けること。
私もだんだんそういうふうに考えられるようになってきた気がします。
とても面白いです。

希望を感じるお話でした。

伝えたい、こと。

2007年12月13日 | 日々ノート
このところ、とてもいいお話をたくさん聞かせてもらっているので
自分だけではずるい気がして、伝えたい。
私を通した言葉で、どこまで感動が伝わるか、分からないけれど。

ひとつはこころんの師匠、まおさんの講和会。
「心の触り方、見方、感じ方」のお話。
人の心を全部は見てはいけない、と思ってない?との問いかけに
はじめはよく分かりませんでした。
でも、そういえば、
ここまで踏み込んだら失礼かな、悪いかな、と相手に対して牽制したり
逆に自分は、こんな(恥ずかしい、嫌な)こと思ってるなんて
誰にも分からないだろうとか
あんまり自分をさらけだすのは、格好悪いとか
人になんて思われるだろうと、変に勘ぐったり…。
確かに人の心に踏み込むのにためらうことが「普通」だと教えられ、そうしてきたし
自分も全ては出さないように努めてきてるなぁ、と気付きました。
「知らない」と思っている方が、イロイロ楽で都合がいいと
思い込んでいたからかもしれない。

「自分の心は全部見せて、相手の心は全部見た方が、楽ですよ」

なかなか理解できずにいたお話ですが、やっと少し分かってきました。
目の前にいる人がどういう人なのか、知ること。
どんな関係性を作っていくかは、それから決まる。
「私たちは恋人同士よね(友達同士よね)」とはじめに決めてしまうのではなく
まずは、知ること。全部を。

「心は、相手の行動をよく見て、観察すると、だんだん分かってくる」

相手の何気ない、ひとこと、表情…。
例えば「今、あなたといたくない」というような、自分にとってマイナスな感情も
ちゃんと受けとめてあげる。
そして、自分の気持ちもちゃんと、出す。

自分の気持ちを出さないことを、ずーっとしてきた私には
目からウロコの考え方だし、すぐにできるかどうか分かりませんが
そうやって、本当の、偽りない、人との関わりができれば
きっと心地いいだろうな、楽だろうな、と思いました。

みんな、自分の中で「いやらしいこと、どろどろした感情」を持っているのに
自分だけ極端に考えて、隠すことに必死になってるのかも…。
それを、やめてもいいんだよって言ってもらえた。
お話を聞いてから、数日そんなことを考え、考え、
毎朝楽しみにしている連ドラの「ちりとてちん」を見ていたら
師匠が同じことを言ってました。
(「ちりとてちん」いいです!おもしろい。私が考えてることが分かるの?と
思う程、タイムリーにメッセージを送ってくれてる気がします)

「どろどろした、いや~な心を持っている自分を、まずは認めて、抱きしめてやる」

そっかー。それからがはじまりなんだ。
そして、苦手に思っている相手のことは

「天から降ってくる災いと(思ってしょうがないと
あきらめてしまうのと)違うのは
相手は、話のできる「人」だということ」

そっかー!うるうる。
毎朝、自分の分身であるB子ちゃんが、必死にやっている。
わたしも、しっかりしなきゃな、と思います。

それから、まおさんは

「人は何のために生きてると思う?」

との問いかけをされました。
私は何の答えも浮かばなかった。分からない…。
まおさんの真ん前に座っていた、R子ちゃん。指名されて

「出会うため」

す、すばらしい。
でも私は「出会うため」という答えのすごさに、はじめはピンと来てなかった。
人は人と関わることで、生きている。それがないと生きていけない。

「自分の顔を自分で(鏡とかの反対むきではなく)ナマで見ることは一生できない」
「だから自分を見るには、相手を見るしかない」

そうやって周りをよくよく、見て、考え、動くこと、
それが日々の修行だな、と感じました。
生き方の、修行。
実を言うと修行とか、弟子とか、そういうことにも
ずっと反発のようなものを感じていました。
いまさら「修行」なんて…という気持ちがあったかもしれない。
変な宗教じゃないんだから…という気持ちもあったと思います。
でも、それは「修行」っていう言葉がいちばんぴったりの気がします。

まおさんのお話は、まだまだたくさんあったのですが
とても書き切れません。
いや、多分、まだ書けません。自分の中で消化しきれてないから。
だから、たくさんの人にナマで聞いてもらいたいなぁと思います。

久々の…

2007年12月04日 | 日々ノート
ブログにアクセスしないまま1ヶ月。

こころんの師匠さんとおっしょさんに
自分の内面を見るきっかけを作っていただき
今まで自分が自分をごまかしてきたことに気付きました。

根が小心者なので、人に嫌われまいということを一番に考える生き方でした。
何かに打ち込んでいるふりを、一生懸命してきていました。
からっぽでひとりぼっちの自分を見るのが恐かった。間違って批判されるのも恐かった。

おっしょさんに、人はひとりぼっちを認めることろからしか始まらない
と教えていただきました。
人がひとりぼっちなのは、論理的にみて事実だ、と。
そして、自分をずっと感覚重視の右脳派だと思い込んでいた私に
おまえは論理的な左脳派だと。
自分でもそれに気付いて、今までの生き方の選択、全部違ってたかも?と思いました。
自分をごまかしていた私には、本当の友達はいません。
人に自分を良くみせることばかり考えていたので、このブログも
過去のものを全部消そうかとも思いました。
でも、やめます。今の自分を受け入れることからはじめます。
これから本当の人間関係をはじめていきます。

本当にたびたび思うのですが、こんな私より、2才の娘の方がずっと大人です。
かっかーは、がんばるよ。自分から逃げないように。

「シークレット」

2007年10月22日 | 日々ノート
「シークレット」

その真実は極秘にされた…。
映画の始めの20分ほどを、netで観ることができます。

少し前の私なら、おもしろそうなフィクションだな~と思って
こんど借りるレンタルリストに加えていただけかもしれません。

でも今は「すとん」と、それが真実であることを
受け止められる。

例えば「マーフィーの法則」もそうだし、「成功する人の考え方」…なんていう
ビジネス本もたくさん出ていて、話としては知ってはいたのです。
でも「真実」としては、多分受け止めきれていなかった。

やっと腑に落ちたかんじです。

ここのところ、そういう嬉しい偶然=必然を感じることがちょこちょこありました。
これからはもっと、いい流れ、スパイラルに乗れるように
私なりの日々の工夫をしてみたいなあと思っています。
もしうまくいくようなら、その「工夫」のこと、紹介しますね。
こんな「工夫」のことを考えていると、生きていくことってホントおもしろいなと思います。

思いは「現れる」のですから、心地良いことをもっと空想しなきゃ!


 ・・・・・・・・


先日は緑一杯の里山で「自然農見学会」に家族で行ってきました。
娘と同い年のお友達も来ていたので、こどもたちは草っパラで戯れたり…。
自然農法の畑は、まるでお花畑のようで、見ているだけで幸せな気持ちになりますし
なんとなくモクモク空想していた暮らしを、現実のものとして見せていただいたように感じました。
緑がいっぱいで、こどもたちがイキイキしてる…そんな暮らし。
集まった方々は、かなり遠方からの方も多くて
農業をされている方から、うちのように半分レジャー気分の人まで、、年齢も様々。
交流会ではいろんな「思い」を話せて、貴重な出会い、体験でした。

最近、自分を開ける人と出会えることが多いです。
知り合いでもないような、駅ですれ違う人にも、そう感じることが多い。

自然農見学会のことを教えてくれた、お友達のNAOちゃんに感謝デス。
私はカメラを持っていってなかったので、すてきな光景は彼女のブログで見てみてください。
近々アップされるはず…。


和みの「わ」

2007年10月16日 | 日々ノート
丁寧に育てられたお野菜に向き合ったお料理を教わって
みんなで美味しい食卓を囲む。
とても心地良い空間です。

その食卓、先月の「正食料理教室」で四元先生がおっしゃったこと。
はっきりとした言葉では覚えていないのに
そのときの、シンとした感じや、先生の温かいお言葉や
なにかとても大事なことだという感覚がずっと残っています。

地球は想像以上に大変なことになっていて、
メディアは想像以上に操作されていている。

これからのこと、そして未来のこどもたちの生きる世界のこと。
先を案じ過ぎて、悲観的になるのではなく、大変な時だからこそ
今を愉しく大切に心地良くすごしましょう、と
先生はそういうことを言われていたのかな、と
ついこの前、そういう言葉となって私なりに理解しました。

そして、今日のゴスペル教室。

「少しだけ行動をおこすこと。思うだけではなく。」

May先生の言葉は、四元先生の時のように、どっしり私に届いてきました。
今日はじめて練習した、チャリティコンサートのための歌。
Beginの「島人ぬ宝」は大好きな歌でした。
歌いながら泣いていたのは、私だけではありませんでしたし
涙が出てもいいんだな、って安心した気持ちで歌えました。
こんな時を共有できる人がいることに、すごく感謝しています。

酒のみ一家の実態

2007年10月13日 | 日々ノート
私の実家は酒のみ一家です。
特に父方は強くて、姉も私もお酒好き。
一番飲めない母でも、夫よりは飲みます。
そう、夫の家系は下戸とは言わないまでも
かなりアルコールに弱いのです。

先日帰省した時に、実家から歩いていける距離の
わりと料理がおいしくて、利き酒師のいるお店に
連れていってもらいました。
酒好き一家は、ちょっとマニアックなラインナップに浮き浮きで
それぞれ冷酒や焼酎を頼んでは、回し飲み。
「おいしい」だの「飲みやすい」だの「やばい」だの
わいわいやっておりました。
みんなが同じように酒好きで、同じくらい飲むので、変な遠慮も気づかいもなく
なんといっても、よく知ってる仲の家族ですから、そういう意味では楽です。
特に子連れの私は、こんなお店も久しぶりで、そりゃあもう…愉しかったです。

ふと思い出した高校生のころのこと。
受験のため母の地元を訪れて、試験のあとじいちゃんと飲んで
はしごしたなあ…。じいちゃんの行きつけのスナックで一緒に歌ったりしたなあ。
今は体を壊しているじいちゃんと。楽しくて大事な思い出。