カメラを片手に

椚神社の神木のクヌギは弘法大師の杖から伝説

雨も降る曇り空の一日、今朝の最低気温は21.4℃とどんよりした重い空気感、
時折厚い雲間から陽射しがあれば蒸し暑さが増し、午後2時前に26.4℃迄上がり、蒸し暑さ全開、梅雨~~~~~です。
      11時、25.4℃、80%

NHKラジオ深夜便・今日の誕生日の花はセンダン科の「センダン・栴檀
平均樹高15mの落葉高木、成長が早く幹はまっすぐに伸び傘状に広がる。
万葉集にも登場し、別名としてアフチ、オオチ、オウチ、アミノキなどと。

木材や葉はほんのりと香り、「2~3回羽状複葉」の葉の付き方も特徴的で、
花はその年の枝の葉のつけ根から花茎を出し、直径2cmほど円錐状にまとま
って開花し、薄紫色の花がもやがかかったように見えますね。

萼と花弁は5枚、その花弁の表側は白い毛でおおわれ白色、裏側が薄紫色を呈
し、10個の雄蕊も紫色です。なお雌蕊は1個です。
花言葉は「意見の相違」、中国ではビャクダンのことをセンダンと呼ばれ、
ビャクダンと間違われやすいことが花言葉と関係しているとの説も・・・。 

先日、「京終・肘塚界隈の寺社を巡る」という講座を受講してきました。
講師は公益財団法人元興寺文化財研究所「服部光真」さんです。
京終・きょうばて」という地名通り、この辺りは平城京と農村の境です。
肘塚・かいのづか」は京終の南東側に広がる地名で、奈良時代に名僧・怪僧
として名をはせた「玄昉・げんぼう」が、対立していた藤原広嗣の霊により空
中へ連れ去られ、頭は興福寺に落ち、「肘」は奈良のまちの南にあたるこの地
に落ちたことから「肘塚」と呼ばれるようになったというエピソードに由来。 

奈良時代、「佐伯院」や「葛木寺」は古代中級貴族の氏寺だったが、古代のう
ちに廃絶になる。
福寺」は興福寺・福田院とも呼ばれ都市の霊場だったが、戦国時代に廃絶。

その後、これらの寺院は、どうなったかを江戸時代以降に確認できる寺社の
たどる歴史や京終地域の信仰文化を伺いました。
このブログでは「福寺を引き継ぐ町の会所①」長福寺と椚神社に焦点を当てる

1735年『奈良坊目拙解』肘塚町の項、村井古道著
長福寺は上街道東側、南端・・本尊十一面観音像・・福寺の旧本尊と伝える
また『奈良坊目拙解』に
"南都南口惣門がこの地にあり、その傍らにクヌギの大樹があったのが地名の由来とも記されている。
なお同書では「椚」に「モンノ」と振仮名が打たれる

地図に当てはめれば、「椚神社」に近接し、肘塚の会所か。


神木にクノキとルビがふられていた。

 
肘塚(当時貝塚郷)神木を守る代わりに諸役御免の特権を受ける。
・御力者正市法師に関して特権を剝奪されるが、交渉して再び認められる。

現在椚神社は上街道沿い近くの交差点脇にあり、上部を切られたクヌギが。
椚の由来に関して、「奈良市史 民俗」にこんなお話が記載されている。
弘法大師がここで休憩されたおり、差した杖から芽が出たという伝承があり、
この杖は春日明神の杖であったとも伝わる。
さらに椚大明神と呼ばれ、この椚を切ると罰が当たると。
      

椚神社には1830年に造られた石祠が安置され、木は1931年に倒れたのち、
再度植えられたと、この石堂木製扉に墨書されていた。
さらに大日如来の梵字が記されていたことから、先に弘法大師の杖の話は真?
       

弘法大師伝説は奈良にもあるのですね。それは当然といえば・・・
弘法大師・空海さんは、東大寺と深い関係性があります。また佐伯氏出身で
先に述べた古代の貴族の氏寺「佐伯院」にも関連されていたかもしれない。

804年(延暦23年)4月9日に東大寺戒壇院で受戒され、804年5月に入唐留学許可
810年(弘仁1年)から814年には第14代東大寺別当となられた。
823年(弘仁14年)に東大寺真言院に灌頂道場を設置、
   自身の草庵として当時の東大寺境内に構えた堂宇が「空海寺」の
   創建につながるとされる。

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