「事実確認」というほどのものではないのですが……。
一つの事象について、他人がどう考えたのか、そしてそれが自分と同じ意見だったのか、そうではなかったのか。
同じ意見であれば、価値観を共有できて喜ばしいだろうし、違う考えだったら物事を多面的に捉える事のきっかけにもなると思うんですけど。
自分の好きなものを批判された時に、自分の人格をも攻撃されたと思うことが、「ムラ社会的」なんですよ。上記引用文の場合、モヒ男君はムラ子さんのことを卑下しているわけではないし、ムラ子さんが○○と言う映画を好きでいる事を、無理やりやめさせようとしているわけではないのです。価値観の相違があったことは事実だと思いますが、相手が「○○が好き」の発言を受けて、○○に対する自分の評価を述べたに過ぎません。相手の価値観を否定したわけではないのです。
もちろん、この会話の後に、モヒ男君が「うわ、ムラ子、趣味悪いね、あんな映画が面白いなんてバカなんじゃないの?」と発言したのなら、人格攻撃と見なしても構わないと思いますが、モヒカン族キーワードの「ムラ社会」に記された該当部分だけでは、そこまで謳われておりません。
このモヒ男君とムラ子さんの会話の例でいうと、批判されたのはムラ子さんではなく、映画監督や宣伝スタッフです。
もし、BLOG STATIONのKenさんが、モヒカン族キーワードの「ムラ社会」に書かれた二人の会話の後に、「あんな映画が面白いなんてバカなんじゃないの?」と続く事を想定し、「それは人格攻撃だからイクナイ!」と考えたのだとしたら、○○という映画に対して低い評価をしているモヒ男君に対して言論を封鎖し、モヒ男君の価値観を述べる事を否定している事にもなるのです。(結局、批判する事を止めさせようとする人は、「批判する事を批判」している事になるので、どこかで矛盾点が生じがちです)
好きか嫌いかという生理的な問題は、互いにいくら意見を出しあっても、どちらかの考えにまとまりにくいものなので、「好き」「嫌い」の事実確認にとどめた方が無難かとは思います。あまり白熱すると不毛な言い争い≒罵倒合戦になるのは目に見えています。→参考:他人の不幸は蜜の味: ブログ上の議論が不毛な結果に終わりがちな理由
……と、ここまで僕は、実は二人の会話が、ある限定された状況以外での物と考えて書いています。オフライン・オンライン問わず、日常会話のような流れから、ムラ子さんが「先日見た映画」の事を持ち出した時のことを想定しています。モヒ男君の「それって宣伝先行のクソ映画でしょ。しかもパクりだし」という発言は、ちょっと空気を読めていないのかもしれませんが、ムラ子さんの「面白かった」という感想に対して、特に不自然なものとは思えません。
冒頭で書いた事と、繰り返しになってしまうのですが、別の例をあげると、こんな感じ。
例えばムラ太郎君のブログにおいて、「この前キャンディーズのCDを買った」という記事を書いたとします。その記事についたコメントの流れとしては、「やっぱりランちゃんが、かわいいよねぇ」というもの。そこへちょっと乗り遅れた常連のモヒ三郎君が「いやぁ、ランちゃんブスだし、でしゃばり過ぎでしょ。俺はグラマラスな方が好きだからスーちゃんがいいな」という発言があったという、そんなものでしょう。全く関係なのですが、キャンディーズ全盛当時、ランちゃん派だった僕は、現在、当時の映像を見ると、間違いなくスーちゃん派です。ぶつぶつぶつ。
このモヒ三郎君の発言が批判されるとしたら、「空気読めていない」ということだけであって、別にランちゃん好きの人格を攻撃しているわけではないのですよ。他の人とは違う感想を述べただけでしょ。自分が抱いた感想と同じモノを、他のみんなが抱いているわけではないのです。モヒ三郎君は「自分はこう思う」という事実を発言しただけですよ。
ところが、この手の発言が、普段モヒ三郎君が訪れた事も無い、キャンディーズファンサイトである「ランちゃん大好きクラブ」で行われたものだとしたら、ちょっと話が違ってきます。その場合においてもモヒ三郎君の発言内容が「人格攻撃」とは思えないのですが、空気を読めていないにもほどがありすぎて、モヒ三郎君を弁護する気にもなりません。
ただし、ネットというパブリックな場所において発表された文言は、時にはこうしたモヒ三郎君のような輩によって異論が唱えられる事も容認すべきだとは思います。
……てなことを考えていたら、はてブに登録された、Kenさんの冒頭の引用元の記事を扱ったはてなダイアリーにほぼ同じ意見が書かれていました。(文章を書くために関連記事を巡回してしまうと、大抵は誰かが既に取り上げているのが、はてブのデメリット)
自分の好きではない物に対して、日常的に礼賛されているサイトに乗り込んでいき、異論を唱えるのは、あまり利口モノのやる事とは思えないのですが、異論が出された事で、即「人格攻撃だ」というのは、被害妄想に過ぎると思います。
「お前ウザイ」というのは、「意見」では無いので荒らし扱いされて当然ではありますが、「自分はそうは思わない」という事を、それなりに理由をつけて述べるのは、決して間違った行為ではないでしょう。ま、歓迎されないのは分かりますけどね、僕はネットにおいて、「なぁなぁな関係」を守るために自分の考えを封殺する気は無いので、自分が言う事も、言われることもあまり気にはしませんね。
以下、これまでのログから、関連していそうなものを抜粋。
「異論を唱えられたくない」「批判されたくない」「議論をしたいわけじゃない」という人がブログ上に存在するのは分かるのですが、そういう彼等が、少なからず何かに対して評論を行っているものでして、「自分は何かを言及するけど、その事に対しての言及はしないで」というのはなんともムシのいいハナシですなぁ、というのは、これまでこのブログ内で何度も述べてきたとおり。僕が「無断リンク禁止」を毛嫌いするのは、「リンクして欲しくない」という事に対してよりは、何かを批評しておきながら、相手に自分の記事への言及を禁じようとするのが気に入らないからなのです。
一つの事象について、他人がどう考えたのか、そしてそれが自分と同じ意見だったのか、そうではなかったのか。
同じ意見であれば、価値観を共有できて喜ばしいだろうし、違う考えだったら物事を多面的に捉える事のきっかけにもなると思うんですけど。
■価値観って、人格の一部でしょ?
「○○って映画を見たけど面白かったよぉ」「それって宣伝先行のクソ映画でしょ。しかもパクりだし」「ねぇ、どうして私にケチをつけるの?」「えっ? 映画にケチはつけたけど、君にケチはつけていないよ」「ひどい。バカにしているのね」
(はてなグループ:モヒカン族 - キーワード「ムラ社会」)
私たちは全員、ムラ社会の中に住んでいます。(もちろん、モヒカン族も例外ではありません。)
モヒ男君は、「映画にケチはつけたけど、君にケチはつけていないよ」と言い訳していますが、「○○という映画が面白い」と言っている、ムラ子さんという人間の価値観を否定していることに、気づいていないようですね。
BLOG STATION:批判について考える
※引用者注・キーワード「ムラ社会」のリンク先は、該当部分を見つけやすくする為、Kenさんがリンクした場所とは一致していません。
自分の好きなものを批判された時に、自分の人格をも攻撃されたと思うことが、「ムラ社会的」なんですよ。上記引用文の場合、モヒ男君はムラ子さんのことを卑下しているわけではないし、ムラ子さんが○○と言う映画を好きでいる事を、無理やりやめさせようとしているわけではないのです。価値観の相違があったことは事実だと思いますが、相手が「○○が好き」の発言を受けて、○○に対する自分の評価を述べたに過ぎません。相手の価値観を否定したわけではないのです。
もちろん、この会話の後に、モヒ男君が「うわ、ムラ子、趣味悪いね、あんな映画が面白いなんてバカなんじゃないの?」と発言したのなら、人格攻撃と見なしても構わないと思いますが、モヒカン族キーワードの「ムラ社会」に記された該当部分だけでは、そこまで謳われておりません。
このモヒ男君とムラ子さんの会話の例でいうと、批判されたのはムラ子さんではなく、映画監督や宣伝スタッフです。
もし、BLOG STATIONのKenさんが、モヒカン族キーワードの「ムラ社会」に書かれた二人の会話の後に、「あんな映画が面白いなんてバカなんじゃないの?」と続く事を想定し、「それは人格攻撃だからイクナイ!」と考えたのだとしたら、○○という映画に対して低い評価をしているモヒ男君に対して言論を封鎖し、モヒ男君の価値観を述べる事を否定している事にもなるのです。(結局、批判する事を止めさせようとする人は、「批判する事を批判」している事になるので、どこかで矛盾点が生じがちです)
好きか嫌いかという生理的な問題は、互いにいくら意見を出しあっても、どちらかの考えにまとまりにくいものなので、「好き」「嫌い」の事実確認にとどめた方が無難かとは思います。あまり白熱すると不毛な言い争い≒罵倒合戦になるのは目に見えています。→参考:他人の不幸は蜜の味: ブログ上の議論が不毛な結果に終わりがちな理由
……と、ここまで僕は、実は二人の会話が、ある限定された状況以外での物と考えて書いています。オフライン・オンライン問わず、日常会話のような流れから、ムラ子さんが「先日見た映画」の事を持ち出した時のことを想定しています。モヒ男君の「それって宣伝先行のクソ映画でしょ。しかもパクりだし」という発言は、ちょっと空気を読めていないのかもしれませんが、ムラ子さんの「面白かった」という感想に対して、特に不自然なものとは思えません。
冒頭で書いた事と、繰り返しになってしまうのですが、別の例をあげると、こんな感じ。
例えばムラ太郎君のブログにおいて、「この前キャンディーズのCDを買った」という記事を書いたとします。その記事についたコメントの流れとしては、「やっぱりランちゃんが、かわいいよねぇ」というもの。そこへちょっと乗り遅れた常連のモヒ三郎君が「いやぁ、ランちゃんブスだし、でしゃばり過ぎでしょ。俺はグラマラスな方が好きだからスーちゃんがいいな」という発言があったという、そんなものでしょう。全く関係なのですが、キャンディーズ全盛当時、ランちゃん派だった僕は、現在、当時の映像を見ると、間違いなくスーちゃん派です。ぶつぶつぶつ。
このモヒ三郎君の発言が批判されるとしたら、「空気読めていない」ということだけであって、別にランちゃん好きの人格を攻撃しているわけではないのですよ。他の人とは違う感想を述べただけでしょ。自分が抱いた感想と同じモノを、他のみんなが抱いているわけではないのです。モヒ三郎君は「自分はこう思う」という事実を発言しただけですよ。
ところが、この手の発言が、普段モヒ三郎君が訪れた事も無い、キャンディーズファンサイトである「ランちゃん大好きクラブ」で行われたものだとしたら、ちょっと話が違ってきます。その場合においてもモヒ三郎君の発言内容が「人格攻撃」とは思えないのですが、空気を読めていないにもほどがありすぎて、モヒ三郎君を弁護する気にもなりません。
ただし、ネットというパブリックな場所において発表された文言は、時にはこうしたモヒ三郎君のような輩によって異論が唱えられる事も容認すべきだとは思います。
……てなことを考えていたら、はてブに登録された、Kenさんの冒頭の引用元の記事を扱ったはてなダイアリーにほぼ同じ意見が書かれていました。(文章を書くために関連記事を巡回してしまうと、大抵は誰かが既に取り上げているのが、はてブのデメリット)
たまたまgoogle先生のお達しで拝見していたブログにとても不快なことが書いてあった、としよう。「あぁ私の意見とは真っ向から対立する奴だ。こういうこと書く奴がいるからけしからん、うぅ、イライラする...。」と思う。
そのブログに対して、「お前ウザイ」と書き込む人は、(僕には信じ難いが)結構いる。
その違いは何か?現実であれネットであれ、基本的にはどんな意見を持っていようとそれを発言する権利を誰しも持っている(という前提がある)。だとすればその意見に反論する権利もまたあるわけだ。
Tres tristes tigres...
※太字は引用者による
自分の好きではない物に対して、日常的に礼賛されているサイトに乗り込んでいき、異論を唱えるのは、あまり利口モノのやる事とは思えないのですが、異論が出された事で、即「人格攻撃だ」というのは、被害妄想に過ぎると思います。
「お前ウザイ」というのは、「意見」では無いので荒らし扱いされて当然ではありますが、「自分はそうは思わない」という事を、それなりに理由をつけて述べるのは、決して間違った行為ではないでしょう。ま、歓迎されないのは分かりますけどね、僕はネットにおいて、「なぁなぁな関係」を守るために自分の考えを封殺する気は無いので、自分が言う事も、言われることもあまり気にはしませんね。
以下、これまでのログから、関連していそうなものを抜粋。
あと、これは「批判される側」への注意点なのですが、自分の一部が批判されただけで、あるいは自分が好きなものを批判されたことで、自分の全てが否定されたような感情を持つのはやめて頂きたい。
批判系サイトで気をつけたいこと
反論の場があるにもかかわらず、ウジウジしているようなら自分のblogで「物事に対する考え」なんか延べなければ良い。意見交換がblogの全てではないのだし、みんながみんな自分の意見の同調者だと思っているのなら、それは大きな間違いなので、反論を恐れるのなら意見を述べるblogなどやらないことだ。
それってやっぱりネットマナー?…4
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「異論を唱えられたくない」「批判されたくない」「議論をしたいわけじゃない」という人がブログ上に存在するのは分かるのですが、そういう彼等が、少なからず何かに対して評論を行っているものでして、「自分は何かを言及するけど、その事に対しての言及はしないで」というのはなんともムシのいいハナシですなぁ、というのは、これまでこのブログ内で何度も述べてきたとおり。僕が「無断リンク禁止」を毛嫌いするのは、「リンクして欲しくない」という事に対してよりは、何かを批評しておきながら、相手に自分の記事への言及を禁じようとするのが気に入らないからなのです。
家庭崩壊を防ぐには、どうしたらよいのでしょうか?
すっごく、くだらん、具体的なネタでいきます。
わたしはスタローンにラブです。
ラブですが、そのわたしに対して「筋肉バカ」と彼を評されても、わたしはわたしに対しての人格否定とは思わないですよ。
そういう風に言う人多いの知ってるし。
「水戸黄門的お決まりのラスト映画ばかり」と言われても、そういうとこあるから、ってとこで終わりですよ。
ドリブン封切りのときは、もう周囲ボロクソでしたが、わたしはゴキゲンでしたし。
例えば、今、ドリブンのレビュー記事書いたとして、それに反論として「あれは駄作だ」というコメント投稿があったとしたら、「映画としての駄作部分は見えてるか?」という意見だと解釈しますよ。
「セナに捧げる」っていうコピーに対して怒るセナファンがコメント投稿したら、セナファンでそう思う人はいるだろうなって思うところあるので、そう思うかもしれないなと思いますよ。
でも、人格否定とは思わないなあ。
スタローンにラブも、変わらないなあ。
批判の根拠を理解していれば、それでいいし。
と書いてたら、ドリブン、また観たくなってきたので、夜、DVD観ることにします。
うっふっふ。
映画の概要を簡単に説明したら、夫が何気なく
「死んだら終わりでしょ」っておっしゃいまして。
なんか、彼にそれ言われたら終わりでしょ、一緒に観たかったのに。
で、こっぱずかしい話ですが、わたし、泣いちゃいました。
論理の通らない泣き方されて夫は困るし、わたしは意地になって「絶対観ない」とか言い張るし。
これはね、「人格否定」というか、「一言で夢をぶち壊された」例。
夫婦仲は「ラブ」だけど、いまだにこの映画、わたしは「観るもんか」姿勢が続いています。
kenさんとこ、kenさんに言われたくない根拠、あるんじゃないの~~と、邪推。
テレフォン人生相談にでも訊いてみてください。
加藤諦三さんのときは、結構キビシーこといわれるような気がするので、
児玉清さんがパーソナリティをつとめる時がオススメです。
相談中に「アタックチャンス下さいッ!」とか言うと、ポイントが高いです。
こんなの見つけました。
ちょっと面白いです。
テレフォン人生相談
http://telejin.at.infoseek.co.jp/
ところでヨ○様って、鉄ヲタのヨコ様の事ですよね?
そういうヨメは、人生で一番好きな期間が長い男は、フミアートでおなじみのあの人だそうです。
お互い爆笑。
それ、大正解。
なんつーか、BBSとかコメント欄では、先に言った者がいくらかの同意を得られた時に、後から異論を唱えたものはウザがられると思う。
場合によっては荒らし扱い。
された経験があります。
カンベンしてくれよ、ほんと。
あ。そうなんだ…結構私はそれやっているきがするけど…鈍いから気付かないだけなのかな…。
うん。きっとウザがられてるんでしょうね…。
ただ、たまーに出没する、何の変哲もないWeb上の言論を「自分に対する」人格攻撃だと思い込んで突撃している人には、「まあネギ食って落ち着け」と声をかけてあげたくなる時もあります。
かなり昔の話ですが、とあるブログに初めて来訪した人のコメント第一声が「喧嘩売ってるんですか?」だった時はちょっと目を疑いました。どっちがだ。
私の旦那も「死んだらおしまい」っていう考えの人なんですけど、あの「ゴースト」は「最高」と言ってまあす。作品に対してというよりは、結婚して一年目だったかな、私の同僚が結婚記念日のプレゼントで招待券をくれたっていう特別な映画ということもあるみたい。
だけど、それだけじゃなく「死んだらおしまい」という考えを持っててもあの普遍的なテーマってけっこうひねくれた人間にもツボにはまっちゃうと思うんですよ。
そういや、私も夫婦仲はラブラブ~ですけど、ガクトさんが絡んでくるとたちまち不機嫌になります。(^^;
これってあれですかね、ペさんで家庭崩壊しそうなのと似たような感じなのかなあ、なんちゃって。( ̄▽ ̄)
ちなみにスタローン私も大好きです。
そんな私ですけれど、スタローンは大根役者だと思ってるし。(^^;
あとシュワちゃんも大好きだけど、演技ヘタ~と思ってるし。(爆)
それに、ガクトさんをどんなにけなされても、別に人格否定されたとは思わないしねえ。
あ、でも姑に「ガクトなんて気持ち悪い」と言われると「むかっ(`´メ)」とするなあ。
でもまあそれは人格否定されたということとは違うか。(と、言いたい放題書き散らかして去っていく天ちゃんなのであった~)
他の多くの人がどう思っているのかは知りませんが、僕はLeftyさんの、ちょっと冷めたツッコミ、好きなんだよな。