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最終目的地 小説と映画

最終目的地 (新潮クレスト・ブックス)
クリエーター情報なし
新潮社

そんなに前に読んだ記憶はないのですが、2012年か、けっこう前ですね。
ほかの作家の本を探していたときに「ピーター・キャメロン」って作者の名前が目に入ってきて、ああ、山際さんの訳で昔「ママがプールを洗う日」で読んだ作家だなあ、、、どんなんかなあ、、、ってんで手に取った本。
(山際さん、あまりにも早い死でした。もっと彼の文章読みたかったな)

南米ウルグアイの人里離れた邸宅にひっそりと暮らす、自殺した作家の妻、作家の愛人と小さな娘。
邸宅の近くには、作家の兄とその恋人の青年が住んでいる。なにもかも停滞したよく言えば穏やかな、悪く言えば「すべてをあきらめてしまった」日々。
ある日そこに、作家の伝記の執筆許可、遺族の公認を得るべく、アメリカの大学院生がやってくる。突然の訪問者に、静かな日々に波紋が広がっていく展開。

自殺した作家のバックボーンがユダヤ系ドイツ人で、両親が戦争の頃ウルグアイに移住してきた、というのと「最終目的地」というタイトルで、どんなディアスポラ小説かと思ったら、全然違いました。

とんがっているところは無いし、とりたてて大きな事件があるわけでもない、登場人物たちも問題意識を常に持ちいろんなことに立ち向かうわけではない、ちょっと変わった点もあるけど普通の人々。
あ、一人だけ常に問題意識を持ち突き進む女がいて、それがディアドラ。
それなりに彼らの中では戦っていることもあるんだけども、けして波立てず、やわっと生きている。
そこへ小石を投げかけるのがオマーだけども、このオマーがてんで優柔不断というか、彼もやわっとしているの。

「ちょっと変わっている」のは、登場人物が亡くなった作家ユルス・グントをめぐるやや複雑な家族構成、という点。
ユルス・グントはドイツからウルグアイに渡った一家の次男で「ゴンドラ」という小説を残して自殺した小説家で、彼本人は物語には登場しない。
登場するのは
オマー・ラザキ:ユルス・グントの伝記を書きたい大学院生。
キャロライン:ユルス・グントの妻。伝記の公認は絶対に与えません、という姿勢を貫く。
アーデン:ユルスの愛人。若い。オマーに会って、少しずつ惹かれていく。伝記も公認していいんじゃないかしら、というふうに考えが傾く。
アダム・グント:ユルスの兄。老人。伝記?オッケーって感じ。案外軽いおっさん。
ピート:アダムの恋人。小説ではタイ人で28歳の設定。
ポーシャ:アーデンとユルスの娘。
ディアドラ:オマーの恋人。できる女光線ビシバシ。

アダムはかつては一緒に暮らしていたが、現在は敷地内(と言ってもめちゃんこ広い)の別の家でピートと住んでいる。
正妻キャロラインと若い愛人アーデン、幼い娘ポーシャは同じ屋敷で暮らしている、そういうなかなかすごいことに。
これが光源氏で同じ家に北の方と愛人がみたいな感じで、めったに女子同士が顔を合わせない、とかならともかく、キャロラインもアーデンもポーシャも普通に一緒に食事していたりするのだから。

頑張りすぎない、たたかわない、波風立てない、おとなしく生きて行こう、っていうのは、これまた現代日本の若い世代の、ゆとりですらない、さとり世代とまで言われているような雰囲気にも似ています。
いや、団塊世代だろうと、シラケ世代だろうと、こう、「たたかいたくないわさ、、、」みたいに逃げる気持ちは、あるよね。

この小説を読んでいると、「変わらなくちゃいけない、頑張らなくちゃいけないのはわかっているけど、無理しなくてもそれは罪じゃないし」的な津村記久子の小説を読んでいるような気分にもなる。

セリフとオペラの使い方が素敵な、優しい文芸小説です。まあちょっと、ロマンチックに走りすぎかもしれないし、優しすぎて、ぬるいと感じる向きもあるでしょう。
オマーのやわっとしたところに、イラっとする人もいるかもしれません。
でも、オマーはこの物語の引っ張り手だととらえれば、(それでもまあ一応彼が主役?)、、、私はキャロラインとディアドラが好きです。

キャロラインの描き方は小説のほうが好き。



映画と小説どっちを先に見ても楽しめますが、キャロラインに心惹かれる人は
小説が先→映画のキャロライン、もっと彼女の心の再生の旅(ウルグアイを出てからの)を見たかったなあ、とちと不満
映画が先→ほらね、やっぱり、アタシのキャロライン、こんなに素敵な人じゃないの~、うふふ、と得した気分

こんな感じじゃないですかね。


ああ、もっと小説のあれこれ書きたいけど、それじゃあこれから読む人の楽しみが減ってしまうしな。難しいね。




最終目的地 [DVD]
クリエーター情報なし
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン



何日か前に久しぶりに映画「最終目的地」のDVDを見た、って書きましたが、そのときに「シネギャラリーは関係ない」って書いたけど、あらまあ、これ、シネギャラリーでやってたのね。なんで静岡で観なかったんだろう。公開時は浜松で見ました。

DVDを見ようと思ったきっかけは、ふとシャルロット・ゲンズブールを見たくなってうちにあるシャルロットってなんだろうな、、、って思って手近にあったのがこれだったからです。

まあこの映画を見てしまうと、シャルロットも可愛いですが、ローラ・リニーのかっこよさにしびれてしまうのでした。
アンソニー・ホプキンスも真田広之も良かったですよ、もちろん。

この年齢でいまだにシャルロットが可愛いってのも、シャルロットに対して失礼かもですが、でも可愛かったとしか言いようがない。
あんなワンピースに長靴(ブーツ?)とか、よくよく考えたら変なのかもしれないけど、可愛く見えてしまうのがまさにシャルロット・マジックです。私の年齢だと、シャルロットがぎりぎり「アイドル女優」的くくりなのかなあ。
古くは薬師丸ひろ子から始まり、洋画だと、フィービー・ケイツ、ジェニファー・コネリー、シンシア・ギブ、あ、忘れちゃならん、ソフィー・マルソー、ムーン・リー、ロザムンド・クァンもそうですが。(ジョディ・フォスターは別枠)
アイドルとして憧れるのは、やっぱし自分と年が近いかちょっと年上、なのがポイントで、デビュー当時のアリッサ・ミラノとかナタリー・ポートマンはほんとに可愛らしいし、ナタリーが来日したときの振り袖姿の愛らしさなんて永久保存版だと思いますが、じゃあ自分にとってアイドルかというとこれまた違う。
シャルロットはそんな感じで、わたしにとっては最後の「きゅんきゅん」ってなったアイドル女優さんです。
だからいまだに映画で彼女を見ると「そこにいてくれればいいよ」みたいな目で見てしまって、それは役者さんに対して失礼なのとは思うんだけどさ、ついついそうなっちゃうんだよぅ。

それを言ったら、真田広之も子供のころのアイドル、、というかヒーローなのですが、ヒーロー的ショットとしては、馬に乗ってるところですかね。あれは美味しい場面でした。
グントの娘、ポーシャがスクールバスから降りてきたところをさっと抱きかかえて連れて帰る場面なのですが、あんな風にお迎えに来てもらえるなら、学校だって頑張って通うでしょうな。
撮影の時は「馬もいて真田もいるなら、馬に乗らせよう、という運びになったようですが、子供を乗せるということになったので、オーディションでおとなしい安全な馬を選んで、プロの乗り手を前に走らせて撮影をしました」とのことです。


小説のオマーにちょっとイラっとしたものの、彼を演じたオマー・メトワリーがいい人オーラビシバシで、、そうだよな、いい人だから、ディアドラが惚れたんだよな、、、って納得してしまう。




ここから先はネタバレです。








アンソニー・ホプキンスを初めて見たのはテレビでやってた「冬のライオン」か「エレファントマン」でした。エレファントマンで偽善者って言葉を覚えたような気がします。
若いころの彼の顔が好きな人にはちょっと嬉しい写真が映画の中に出てきます。ユルス・グントは映画の中に全く登場せず、写真のみですが、その写真はアンソニーの若いころのお写真。あとはピアノを弾くところもありまする。即興らしい。うっひょい!!!!!!もっとピアノ弾いてるところ見たいなあ。。。。
真田広之のピート役は彼に合わせて、40歳、日本人という設定に書き換えられています。法的にはアダムの養子ということにして社会というか世間対策。
映画では公開前に「ホプキンスと真田が恋人同士?」みたいな煽りもあったけども、映画見た人は「もうこれはほぼ、家族愛、人間愛に近い結びつきだよなあ」というあったかい感情を抱くような描き方になっています。大昔のジュリーとの「魔界転生」に比べたら可愛いもんだ。
よくよく考えると40歳で25年連れ添った、、、ということは、アダムがピートをひっかけたのは15歳?犯罪だよ、そりゃ。
映画の中でもそれなりにいちゃこらしていますが、小説のほうがアツアツラブラブっていうか、まあ、小説の設定が若い年齢のせいもあると思う。
一応映画でもラブシーンはありますが、あったかい雰囲気で、感動の一場面になるはず、、、なんですけども、そのあとの、アダムが窓辺で憂えっているというか、いろいろ悩んでいるのか、知りませんが、その短い数秒、どう見ても「チューの余韻にひたってるな、このおやじ。。。」で、あんた、ピートを泣かせてるのに、ほんとに軽いっていうか飄々としてるっていうか、、、まあこれは私が小説で感じていた「軽いおっさん(みんなのためにあえて軽さを装っている風だけども、本人が底抜けに本気でただただ軽い)」そのものなので、この演技は「グッジョブ!」とは思うんだけどもね。。。昼寝の場面の無邪気な顔とかも、ほんと、罪なおっさんだと思う。
ホプキンスの演技では、最後の最後のほう、オマーに「DAY AFTER DAY」って言うところが好きです。あとはオマーの真剣なセリフに「何のことか、さっぱりわからん」ってばっさりのところも・笑


キャロラインを演じたローラ・リニーが素敵です。抑制のきいた、そして時にピリッと山椒をきかせたような静かなパンチのある演技。
キャロラインは気難しく、本心をなかなか人には打ち明けないし、弱みも全く見せようとしない。でも本当は情が深くて優しい女性。そうでなきゃ愛人とその娘を夫の死後まで抱え込まないはず。
絵画やオペラのためなら自分を犠牲にすることも厭わない、感情の豊かな、懐のあったかい人。
この映画は特別不幸ではないけれどもかといって幸せいっぱいではない人々が、今の停滞から解き放たれる物語なんだけども、一番解き放たれたのはキャロラインとディアドラだと思う。
ラストのマドリッドでの彼女はとてもきれいでしたね。

ああ、、彼女で三人姉妹とかオネーギンを見てみたいなあ!絶対に似合うと思う!!!!

ラストのキャロラインとディアドラの再会シーンは、甘ったるい感傷かもしれないけども、「みんなハッピーエンドで大団円、そういう映画があってもいいじゃない」って素直に喜べました。
そう、キャロラインとディアドラって憎まれ役かもしれないんだけども、強いできる女だって、ほんと、大変なんだよ。彼女たちだって幸せになる権利はあるぜ、って応援したくなる。

小説と映画の大きな違いは、キャロラインとディアドラの友情が、映画のほうが「このあと、二人はいいコンビになるだろうな、お互いの旦那さまが妬くくらいにきっと人生楽しんじゃう」って想像ができます。
小説は仲良くなるのかこれっきりなのか、ちとあいまいな印象。余韻で勝負って感じ。
ピートとアダムの関係が一番違うかな。
どちらもグッドエンディングですが、全員幸せになるバージョンという意味では映画がより、ハッピーエンディング。アダムも仕事を始めたせいか、なんか若返っている印象。
それでも小説のほうの、アダムがオマーに吐露する「なんてひどいことを聞くんだ(さみしくないわけないだろう!)」って場面やおまるに頼っていることを打ち明けるところは切なくても好きですね。

あとは、キャメロンの原作はあまり風景描写とかないんですが、さすがは映像。素敵な仕上がりです。あんな朽ちかけた屋敷、現実に住むのは大変でしょうが、、、行ってみたくなるし、木立もカウボーイたちも湖も、陽のきらめきも美しかったなあ。オペラの使い方も小説・映画、それぞれ重要でしたが、曲(と劇場も)は少し変えています。
その違いもなんか楽しい。




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