「いき」とは。
やせ我慢と諦め どちらも心の強さが必要
追求 → 自分らしさ、自由が得られる。
永井荷風は、妻を持つこと、家庭を「諦め」、「やせ我慢」をして
自由に生きたのではないだろうか。
私は、そんな荷風先生をみて「らしさ」「自由」な生き方を感じる。
自分もそんな風な生き方ができたら、どんなにいいだろうと考える。
恋愛の先に進めない、進まない「やせ我慢」「諦め」は、いきというより
野暮なのかもしれない。
そんな生き方しかできない荷風先生に「らしさ」は感じるが、完全に
「自由」ではない。
好きな女性と所帯を持つ、思うままの「自由」。その果てに訪れる
縛られた「不自由」が見えている。
そんな人生に「不自由」」を感じている。それから逃れる人生に対する「諦め」。
私の私見であるが、荷風先生は、「自由」に見えたが、「不自由」な人生を
「諦め」、やせ我慢して生きた。
一面「いき」であるが、その裏に「やせ我慢」して「諦め」ている荷風先生がいる。
それが、「いき」だとは言いにくい。
その寂しさは、「わび・さび」なのかもしれない。
私は、荷風先生を「いき」だと思っていたが、今は「わび・さび」の人では
ないかと考えが変わった。
どことなく寂しさの感じる荷風先生を「いき」に感じる。