詩人 自由エッセー

月1回原則として第3土曜日に、隔月で二人の詩人に各6回、全12回の年間連載です。

第11回 ブローニュの森、迷訪(第6回) ドッペルゲンガーと詩人 駒ヶ嶺 朋乎

2018-02-06 01:17:52 | 日記
 ドッペルゲンガー、Doppelgänger二重身、英語ではautoscopy、つまり自己像幻視、これを見てはいけない。小学生の頃、とにかく怖かった情報の一つ、「自分のそっくりさん、ドッペルゲンガーを見てはいけない」。リンカーン大統領が死の前日に見たというあの自己像幻視である。怖い。しかし不思議の巣窟である現代詩には、あっさり“小学生の時にこれを見たよ”、という詩がある。北爪満喜「ウィリアム・ウィルソンを知らなかったころ」。

 ある日のいつもの学校帰り
 道から 見上げる
 何かヘンだ あそこにいるのは私みたいだ
 民俗資料館の石庭で
 男子にまじって石から石へ飛び移っている
 私がいる
 私はいるのに 私がいる

 ぱっと自分の服を見た
 茶色のスカートと赤いジャンパー
 ……茶色のスカートに赤いジャンパー 飛び移っている私
 同じだ 私が二人いる

(「ウィリアム・ウィルソンを知らなかった頃」北爪満喜個人誌「Memories MAEBASHI 36.5℃のあたり」2015年、p.12)


 うわあー、怖い。この詩は創作ではなく叙事詩だと著者本人に確認した。北爪さんはいまも元気だから、ここに私が恐怖で書くことができない諸々の“ドッペルゲンガーを見たらどうなる”という怖い逸話はすべて迷信なんだなと思い直すことができる。ありがたい詩体験である。詩人、エドガー・アラン・ポーによる恐怖小説『ウィリアム・ウィルソン』が題名に引用されている。さてどんな話かというと、これがまた恐怖小説だから当然怖い。岩波文庫の中野好夫訳『黒猫・モルグ街の殺人事件』に収載されている。…学校に自分と同姓同名の自分そっくりの少年がいて、いつも主体のウィルソンの気に障り、ことあるごとに揶揄してきた。しかし相手のウィルソンは「先天的疾病からきた肉体的特異、つまり彼はなにか咽頭部器官に欠陥があり」(p.35)はっきりとした発声がない。姿形がはっきりしながらも、相手の意思はおぼつかないのだ。学校を卒業後もつきまとうような気配を察知し続け、最後には決闘となり相手を刺したはずが、自分が倒れる。

そして僕は、ほとんど僕自身が喋っているのではないかと錯覚したのだが、はっきりと彼は言った。
(「ウィリアム・ウィルソン」中野好夫訳『黒猫・モルグ街の殺人事件』岩波文庫、1978年、p.59)


 そして客体側のウィルソンの敗北勝利宣言で終わる。なんなんだこの怖さは。北爪さんのもポーのも、黙して語らない幻影がまず怖い。ポーのはさらに分身した自分自身に、最後には意思ごと存在を持って行っていかれてしまう。とにかく怖い話が好きだが怖いのは苦手なので、恐怖を和らげるために科学的説明を探しに行く。
 自己像幻視の最初の科学的記録は紀元前のアリストテレス『気象論』が最古であるという(古川哲雄「自己幻視」『ヤヌスの顔第5集 現象学的神経内科学』科学評論社、2004年)。現代の神経学では自己像幻視はautoscopy, heautoscopy, out-of-body experienceの3つに分類されている(Blanke O, Mohr C. Out-of-body experience, heautoscopy, and autoscopic hallucination of neurological origin. Implications for neurocognitive mechanisms of corporeal awareness and self conscicousness. Brain Res Rev 50, 184-199, 2005)。自分としか思えないそっくりさんがいるのを見た、という現象はautoscopyで、見てしまった分身と自分自身の双方に意思があったり交流がある場合にheautoscopyで、本体と思われる体から抜け出してしまって置いてきた体を見た、という現象がout-of-body experience、つまりいわゆる幽体離脱である。怪奇現象ではなく脳の見せる現象であることは現在までに、脳の直接刺激での再現、PET、fMRIなどの研究で明らかにされていて、その責任部位として、体の位置・視覚・聴覚情報を統合する部位である右側頭頭頂接合部が最も疑わしいと目されている(同上Blanke)。
 北爪詩の自己像幻視は分類上、第一のもの、シンプルなautoscopyということになる。ポーのは、最後にどちらが主体なのかわからなくなってしまうので、autoscopyがheautoscopyに変容、進展してしまったと考えられる。
 こうした自己像幻視のなかで、本体の体ではなく幻覚のほうに意思を持つのがout-of-body experienceであり、これはとくに臨死体験としての経験が多い(Greyson B. The near-death experience scale. Construction, reliability, and validity. J Nerv Ment Dis 17, 369-375, 1983)。そのため怖い迷信につながるのだろうか。しかしこうした“幽体離脱”経験は死の恐怖を和らげるという報告もある(Bourdin P, Barberia I, Oliva R, Slater M. A virtual out-of-body experience reduces fear of death. Plos One 12, 0169343, 2017)。また健康な学生へのアンケートで経験があると答えたのは10%に挙がるとする報告もある(前述Blanke)。
 自己像幻視を執拗に作品化している特異な詩人がいる。髙木敏次である。

 ひとりの私がすわっていた
 頭を振り
 答えることもなく
 はるかな城を目指して
 見覚えがあるのは
 わざとらしい傍ら
 やっと今になって
 向こうから目を凝らしている
 
(「四」髙木敏次『私の男』思潮社、2015年 p.25)


 あ、私がすわっている、ということに気づいてから、相手も、気づいたようなそぶりを見せる。これ、ものすごく怖い…。深淵を覗くものは深淵に覗かれる、というダンテのあの有名な一節を喚起させる。彼は第一詩集『傍らの男』(思潮社、2010年)で「もしも/遠くから/私がやってきたら/すこしは/真似ることができるだろうか」(「帰り道」p.10)という背筋の寒くなるような自己像幻視を提案した。あろうことかその名作一編のみならず、まるごと一冊、すべての詩篇において、他者からの視点のような一種の離人感がただよう、分離した自己をそこかしこに見つけるだけの空疎な世界を提示している。これでH氏賞を受賞して、普通の人だということがわかったのだが、謎めいていることに、執拗にも第二詩集もまた上記の、延々と空虚な自己像幻視を全編に渡って繰り返している。そしてなにより恐ろしいのは、これらの詩の中には感情描写がない。主体がウィリアム・ウィルソンのように怖がっているのかどうかがまったくわからないだけに、どう受け止めればいいかわからないのだ。ウィルソンでは分身の意思がおぼつかなかったのがとにかく怖かったが、髙木詩ではもはや、分身どころか本体の意思さえおぼつかないのだ。分身を見た恐怖を読み手は追体験するための説明不足なのだろうか。ホルヘ・ルイス・ボルヘスがかの『幻獣辞典』の序文に「幻想の動物たちは現実の動物より常に貧しい」と述べたが、幻覚の情報量は常に現実体験よりも乏しく、それでいて心理的には克明な経験であるという不思議な矛盾がある。髙木さん本人に、これが叙事詩、実体験の記録の詩であるのかどうか聞いていないのだが、音もなく、視覚情報だけ、単モジュール性の対象であり、神経学的見地からは、幻視の忠実な再現として読める。詩人の知覚する世界は、現実のみならず幻想世界へも広がりを見せるものである。…理論武装してみた。それでもやっぱりちょっと怖いな。ドッペルゲンガーが出てくると詩も、怖いな。

駒ヶ嶺 朋乎(詩人、医師、医学博士)。
本エッセーの科学的考察部分は第1回稲門医学会学術集会(2018年1月、東京)で発表したものを転載した。
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