詩人 自由エッセー

月1回原則として第3土曜日に、隔月で二人の詩人に各6回、全12回の年間連載です。

第17回 漫画を読む日常(第3回) ―『不安の種』と日常に潜む歪さ― 望月 遊馬

2018-08-12 16:18:28 | 日記
 私は幽霊やお化けの類をまったく信じていない。たとえば、うすぐらい墓地に夜にひとりで行くことにも抵抗がない。高校生のときにはこんな事があった。学校の体育祭の開催が迫っており、どうしてもバスケの練習をしなければならなかった私は、近所の墓地のある山にのぼって、ぽつんと光る外灯のもとでバスケの練習をした。しんと静まりかえった山は真っ暗だけれど、時おり吹く風が気持ち良いくらいで、汗をかいて家に帰る途中に見た墓地も、どこか青春のすがすがしさを持っているようにすら思えた。
 このように幽霊やお化けを信じない私であるから、ホラー映画や心霊現象にまったく興味がないだろうと思われるかもしれないが、実は私はホラー映画が大好きであるし、幼稚園のころは霊能者に憧れていた。そもそもホラー映画に興味を持ったきっかけは、私の叔母が大のゾンビ映画好きで休日になるたびに叔母の家に遊びに行って一緒にゾンビ映画を見ていたことに端を発する。ゾンビ映画の巨匠であるルチオ・フルチの『サンゲリア』や『ビヨンド』などを後年好むようになったのは、あきらかに叔母の影響だ。私は確かにそれらの作品から恐怖を得ていた。けれどもそれは虚構の世界であるという前提があってこそだ。非日常を享受できることそのものが純粋に楽しかった。
 「私はどこか人とは感覚がずれているのだろうか。」そう思うこともあった。両親も、暗闇をまったく恐れないばかりか、人が残酷に殺されていく映画を嬉々として見ている幼稚園児の私の将来を案じていたようだった。しかし、私はそれらがすべて虚構の世界であることを了解していたし、現実では起こりえないことだと知っていた。だからこそ、私の精神が虚構に取り込まれることもなかった。
 逆にそれが現実に起こったことであると分かった途端、私は急に臆病になる。たとえば、手術シーンのドキュメンタリーなどは怖くて見ることができない。普段はもっと残酷な、はらわたが引き出されるような残酷描写を平気で見ているにも関わらずだ。それはつまり患者の尊厳にかかわってくることだから。それもある。直接的に生死にかかわる事柄が現実に起きているのだ。それは恐ろしく、また、尊いことではないか。
 ひとことで言うならば、私のなかでは現実と虚構が、かけ離れているのだ。しかし、だからこそ私はホラー映画を「安心して」見ることが出来るのかもしれない。
 話を戻そう。今回、取り上げる『不安の種』という作品は、今年、映画化もされた人気ホラー漫画だ。この漫画は日常のちょっとしたところに潜む恐怖を描いている。たとえばそれは幸せそうな家族にとり憑いている異形のものだったりする。恐怖の対象は、具現化されたクリーチャーとして描かれることもある。作者の画力ゆえだろうか、それらのクリーチャーがやけに不気味で迫力がある。このようなものが、人の目につかないところに潜んでいて時機をみて人間の精神や肉体をむしばんでゆくのだと思うと、空恐ろしい。漫画は短編作品が連なる形式で成り立っている。短いためにすぐに読めるところも魅力だ。
 私にとって紙媒体のホラーへの入り口は角川ホラー文庫だった。小池真理子の『墓地を見おろす家』を興奮して読んだ記憶がある。この作品も、墓地と寺に囲まれたマンションで起こる怪異を描いていて、その恐ろしさに戦慄した記憶がある。日常と地続きのところにある恐怖――そういうものにも私は惹かれる。
 ところで『不安の種』は実は詩人の白鳥央堂さんに勧められて読んだ。もう何年もまえの話である。このとき一緒に勧められた漫画に『ミスミソウ』という作品がある。こちらも、人間の恐ろしさが描かれていて素晴らしい作品だった。(実を言うと、私は『不安の種』よりも、この『ミスミソウ』の方が鮮烈に記憶に残っているくらいだ)私は白鳥央堂さんの詩が好きなのだが、彼の作品とはまた別の問題として語られるべきこれらの愛すべき漫画にも多大な影響を受けたことをここに付け加えておく。
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