「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評197回 新たな技法の評価が求められている 桑原 憂太郎

2024-03-03 00:57:08 | 短歌時評

 角川「短歌」2月号の特集は「句切れの真相」。
 初句切れとか二句切れとかの、あの「句切れ」のこと。
 「句切れ」というのは、言わずもがなの、短歌の表現技法の一つ。短歌には、「体言止め」とか「句割れ」とか「句またがり」とか「倒置」とか「対句」とか「反復」とか、いっぱいいろんな表現技法があるけど、「句切れ」も、その一つ。技法であるから、短歌作品をよりよいものにしようとする、歌人が歌作のときに使うテクニックだ。
 だから、歌作するときには、そうした技法を体得していれば、イマイチの表現だった作品が、よりよい表現の作品へと変えることができる。
 一方、短歌作品を鑑賞するときは、そうした技法によってよりよくなった表現を味わえばよい。また一方で、作品評なんかをするときには、そうした技法が、作品のなかでキチンと効果的に用いられているか、なんてことをそれらしく述べれば、それらしい作品評になるだろう。
 そんな技法なわけであるが、そのなかでも「句切れ」の技法というのは、ほかの「体言止め」とか「句割れ」とか「句またがり」とか「倒置」とか「対句」とか「反復」とかという技法とどう違うのか。
というと、これは、林和清の次の一文に尽きる。
 すなわち、

 句切れの重要性は、定型意識の強度に比例する。(林「句切れに刻印されているもの」角川「短歌」2024年2月号)

 ということなのだ。

 つまり、表現技法としての「句切れ」は、定型意識の強い作品ほど、その重要性は増す、ということだ。
 これ、逆にいえば、定型意識の弱い作品にとっては、句切れという技法は、たいして重要ではない、といえるだろう。
 表現技法としての「句切れ」の効用について、実に、簡潔にしてキッパリとした文章だ。この角川「短歌」の特集は、この一文がすべてといってよい。
つまり、この林の一文が、「句切れの真相」だ。

 では、「句切れ」の「真相」が明らかになったところで、そもそも、定型意識の強い歌、弱い歌とは、いったい、どんな歌をいうのだろう。
 定型意識の強い歌については、それこそ角川「短歌」の特集でいっぱい取り上げられているので、ここでは、あえて定型意識の弱い歌を取り上げて、そこで「句切れ」がどうなっているのかを、みてみたいと思う。
 私が、定型意識の弱い歌ときいて思い出すのは、大辻隆弘の以下の論考だ。
 かつて、大辻隆弘は、「『ざっくりとした定型意識』について」という論考(『時の基底』六花書林、所収)のなかで、次の五首をあげて、その定型意識について次のように論じたのだった。

ラジカセの音量をMAXにしたことがない 秋風の最中に             五島諭

コアラのマーチぶちまけてかっとなってさかだちしてばかあちこちすき       飯田有子

海の生き物って考えていることがわかんないのが多い、蛸ほか           穂村弘

イェーイと言うのでイェーイと言うとあなたそういう人じゃないでしょ、と叱られる 斎藤斎藤

「水菜買いにきた」/三時間高速をとばしてこのへやに/みずな/かいに。     今橋愛

 大辻は論考のなかで、かつて小林久美子がとある批評会で言った「ざっくりとした定型意識」という言葉に「そうか」と蒙を啓かれる気分になった、と述べる。そのうえで、「その言葉は、現在の若者たちの短歌に流れる定型に対するアバウトな姿勢を、感覚的にではあるが、うまく言い表した言葉のように感じられた」(前掲書)と述べる。

 大辻が感じた「ざっくりとした定型意識」。
 定型意識はない、というわけではない。ざっくりとしているけど、あるにはある、ということなのだろう。つまり、定型意識が弱い、とくくっても、大きくはずれてはいまい。
 たとえば、五島の作品は、定型で区切るのではなく、「ラジカセの/音量を/MAXに/したことがない/秋風の最中に」と、五五五七九という音数律に分けるのが自然であろう。しかし、こうなると、短歌の五七五五七七の定型からは当然ながら外れる。でも、外れてはいるんだけど、初句や三句は五音だし、四句も七音だし、それになにより五句に区切ることができるということで、短歌の構成意識がみられよう。破調といえば破調だけど、弱いながらも定型意識は感じられる、といえるだろう。
 次の飯田の作品は、七五六八六あたりに区切れそうだし、穂村の作品は、短歌定型に近づけるなら、七七五七七あたりに区切れそうで、特に下句は、「句跨り」の七七で読み下せる。なので、これらの作品も、弱いながらも定型意識があるといっていだろう。
 では、こうした作品にとって、「句切れ」はどの程度重要なのだろう。
 五島の作品で考えるなら、この作品は四句で切れている、といえる。なので、四句切れ、といえなくもない。けど、ここでの「句切れ」の効果は果てしなく弱いだろう。もし、ここを「句切れ」ととるなら、結句の九音がせっかくの切れを台無しにしている、ということにならないか。筆者としては、ここで句を切ったというよりも、四句までで一文を終わらせて、結句はまた別の一文が挿入されている、感じで読んだほうが、よい鑑賞ができるように思える。
 つまり、この作品からは、「句切れ」の重要性を感じることはない。というか、この作品は、そもそも表現技法としての「句切れ」の技法を有効に使いたかった、というわけではないのだ。この作品は、「句切れ」の切れ具合を効果的に使おうという作品なのではなく、結句九音の冗長性を出すため、あえて四句で一度、叙述を終わらせた、ということなのだろうと思う。ここで、一度終わらせたうえで、結句を冗長に叙述して、抒情を醸したということなのだと思う。
 そうであるなら、この作品は、表現技法としてのこれまでの「句切れ」についての評価軸とは違った読みが求められているといえないだろうか。これまでの「句切れ」の読みではないのだから、例えば、「句切れ」の切れ味がどうの、なんて評は、まったく的外れとなるのではないか。

 より最近になると、もっと、定型意識の弱い作品も提出されている。

カーテンがふくらむ二次性徴みたい あ 願えば春は永遠なのか          初谷むい『花は泡、そこにいたって合いたいよ』

あっ、ビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の             千種創一『砂丘律』

 ここまで、定型意識が弱められると、表現技法としての「句切れ」の有効性については、もう無効になってしまっている、といえるだろう。

 あるいは、次の作品はどうか。

真夜中のバドミントンが 月が暗いせいではないね つづかないのは        宇都宮敦

三月のつめたい光 つめたいね 牛乳パックにストローをさす

美しい田舎 どんどんブスになる私 墓石屋の望遠鏡               北山あさひ

離婚してほしいと言ったことがある ヒヤシンス 咲きたくなっちゃった

 この四首は、我妻俊樹と平岡直子による共著『起きられない朝のための短歌入門』(書肆侃侃房)で取り上げられて、三分割になっている、と議論のあった作品である。
 短歌を二分割するのが「句切れ」なら、三分割は、「句切れ」が二つということになる。こうなると、もう、従来の「句切れ」の有効性など、すっかり無効になってしまっていよう。
 それに、宇都宮の「三月の~」は定型だし、北山の二首は、「句割れ」や「句跨り」を有効に使った短歌定型の作品である。先に掲出した作品群とは違って、定型意識が弱いわけではない。逆に、強いからこそ、北山の作品は、「句割れ」や「句跨り」が効果的に働いているのである。
 つまり、定型意識が強くとも、「句切れ」の重要性がすっかり無効となった作品が提出されるようになっている、というのが、現代短歌の先端部分なのだ。
 先の初谷むいや千種創一も含めて、こうした現代短歌作品によって、従来の「句切れ」にかわる、新たな技法としての評価が、鑑賞する側に求められている、といえるのだ。


短歌評 教えてほしい、MISOHITOMOJIの底力(後編)――『胎動短歌』(Collective vol.3)の挑戦 添田 馨

2024-02-23 20:30:45 | 短歌時評

 ここ最近、言葉を読むことが手放しでこんなに楽しかったことはついぞなかった。『胎動短歌』(Collective vol.3)に収められた数々の短歌(短詩型作品)の、それぞれに現われた言葉の多彩な表情のことである。いよいよ、その後半戦を始めてみることにしよう。お断りしておくが、ここで述べることはすべて私の個人的感想であって、つまるところ私のマニアックな面白がりの記録にすぎないのだから、そこのところはよろしくご理解ねがいます。

前編はこちらをご覧ください。

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生真面目な生徒 マティスが飾られてあるかのように白壁を見る        (風の香、ゾンビ、ある夕焼け/千葉聡)

 いや、実に痛快だ。だって、「マティス」はもともと飾られてないわけだよね?でも、飾られていないはずの「マティス」が、この作品のなかにまぎれもなく「飾られて」あるよね?これってどういうこと? いやいや、それだけじゃない。あるのはただの「白壁」であって「マティス」は飾られていないのに、私には何故か、「マティス」の飾られた「白壁」が見えてしまうんだけど、これってどういうこと?そうか、そうか、「生真面目な生徒」が「見る」筋書きになってるけど、見てるのはじつは読者たるこの私なんだ。「生真面目な生徒」はほんとうは実在せず、「生真面目」という四文字(餌)に私の感受性がみごとに吊りあげられた結果がこれなんだな。無から有をうみだす、これは見事すぎるお手本だね。

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城壁に這いながら沿う朝顔のようにあなたを奔る静脈             (クロール/toron*)

 いちばんの謎は「あなた」です。いえ、そこのあなたではなくて、「あなた」という二人称の指示対象が謎なんです。そもそも「あなた」っていったい誰のことよ? 恋人? 自分自身? それとも不特定多数の誰でもない誰かのこと?いやどれも違うな。つまり「静脈」に還元されるところの対象じゃなくて、もっとぐねぐねしたもののイメージだね。「城壁」をここで身体表面のメタファーと捉えれば、それに沿ってぐねぐねと伸びる「朝顔」はまさに生き物としてのリアルな姿。とっても生々しい感覚となって、そこにはエロスを感じるね。「朝顔」と「静脈」は「~のように」で繋がっていて同格になってるから、「あなた」はそうした生命現象そのもののことだと私は思うんだが、どうだろう?

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はなびらはなびらはなつひらひらももいろのやわらかなそれをいま抱きしめよ   (点滅/野口あや子)

 コトバってオトだけでもないしモジだけでもないしイミだけでもないし、それらぜんぶを含みこんでさらに余りあるナニカだよね。そのナニカがいかんなく発揮されているこれは作品だと思ったね。「やわらかなそれをいま抱きしめよ」はそんなナニカを「抱きしめよ」と言ってるように私には聞こえる。じゃ、その「それ」とはなんだろうか。「それ」とは「はなびらはなびらはなつひらひらももいろの」ナニカだ。ということは、コトバでしかないものだ。コトバでしかないのにコトバいじょうのナニカだ。このばあい「やわらかな」という形容詞はことのほかだいじだね。「やわらかな」コトバはだれも傷つけないわけだから、「はなびらはなびらはなつひらひらももいろの」はコトバのそんな優しさの‶絶対語感〟じゃないのかな。

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きみのなかみが機械だったらいいのに、は そこなし沼に投げる飴玉
わたしにはきみしかおらずきみもまたわたしばかりで 剣飲むマジック      (こころスカッシュ/初谷むい)

 短歌が言語ゲームかもしれないという直感がわたしにはあって、だとしたらそれはかならず対話を形成しているはず。この二首なんか、上の句と下の句が張り合いながら対話している、そんな感じがする。みえない天秤がここには仕組まれている印象があるね。どっちか一方に傾いてしまったら、ちょっと鼻白むかな。だから勝負はコトバとコトバのバランスの取りあいで決まってしまう。たとえばはじめの作品では「機械」と「飴玉」の勝負になってるね。二番目の作品では「わたしにはきみしかおらずきみもまたわたしばかり」と「剣飲むマジック」が、勝負というより、もうこれは決闘だな。MISOHITOMOJI(短歌)というリングのうえで繰り広げられるコトバの異種格闘技には、つい興奮してしまうのです。

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生き物のすべての言語理解して最後の花はちぎれてゆくの            (銀の靴/東直子)

 なんかとてつもないことが、あまりにも簡単に語られてしまい、こちとら拍子抜けしてしまうところが、なんともいいね。拍子抜けついでに言わせてもらえば、鳥や獣や虫や植物にもそれぞれの「言語」がほんとうにあるのかという話し。わたしたちは「言語」がないとすごく不便なことになるけれど、「言語」をもたないはずの彼らは、そのことでぜんぜん困っているようにはみえない。それでもちゃんと生きている。その仕草がすでにしてかれらの「言語」なのかもしれないね。〝自然言霊〟と私は呼んでるけど、「最後の花」っていうのはそこに通じる詩的言語のことじゃないのかな、たぶん。「ちぎれてゆく」ことが作品化の契機を物語っているとすれば、〝もののあはれ〟はまちがいなくそこに誕生するのだと思う。

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春を売る人に負けじと夏を売る 祖父の育てたスイカが売れる         (Paradigm Shift/ひつじのあゆみ)

 おお、これは商売の競争のことを詠っていると見せかけて、じつはスイカを売ろうとしたキャッチコピーなのか?んなわけないない(笑)。とても骨太い力強さを感じてしまうのは何故なのだろう。「祖父の育てたスイカが売れる」ことが、ここでは、はからずも無償な救済になっている。たぶん、それは大きくて甘くて水分のゆたかなまるまるずっしりとした「スイカ」なのに違いない。「春を売る人」が売ってるのは「」にすぎないわけだけど、「夏を売る」人が売るのはただの「スイカ」ということではなく、「スイカ」に象徴される生命力の贈与そのものなんだという、これは表明だね。こんな単純明快ないいきりが、こんなにドラマチックにいえるなんて短歌ってやっぱりすごいかも。

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創世記からの顔風船だけで浮かんで死ねる(つもりなのかい          (「24:球体john」/平川綾真智)

 いえ、そんなつもりは……とおもわず反応してしまいそうな喉仏であります。「顔風船」っていかにも軽そうなイメージだけど、私なんかどうしても2021年に代々木公園上空に出現した「まさゆめ」プロジェクトの、あの異様な〝顔風船〟の光景が思い浮かんでしまって、どうもよろしくない。それはともかく、「創世記」は起源の物語だから事実でないことは当たり前だとしても、信じてるひとからすればそれは事実ではないことのうえに事後の物語をつむいでいくことになり、そんなフェイクのうえにフェイクをうわ塗りした高貴なストーリーにそって殉難死してくださいっていきなり頼まれても、そりゃ困るよね。だから、こうして問いつづけてるわけだ。閉じカッコがないのも、たぶんそのためなんだろうな。

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右側は苦い光だ瀬戸際のダッシュボードの下の太腿              (地獄ハイウェイ/広瀬大志)

 対向車線なんだろうか、追越し車線なんだろうか?車を運転してると右側ってやっぱりつねに気にしてないといけない方向なので、のんびり景色を堪能なんていうわけにはとてもいかない習いなわけです。朝陽が射しかかっていても夕陽を浴びていたとしても、それは変わらないから「苦い光」はにがいままにいつしか車中の日常世界に乱反射するようになります。そんな生と死の「瀬戸際」に位置するダッシュボードは、退屈な命数をその手ににぎってしまっているから、せまい車中空間のなかでゆいいつ視線をはしらすことができる、そんな許された視界にはいってくる「太腿」って、いったい誰のフトモモなんだろうね?まさか自分のじゃつまらないよね。あとはご想像におまかせしますよ。で、頼むから事故らないでね。

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この世にはものまねされる人もいるウニ軍艦はきゅうりも乗れる        (ショート、バッドロング/文月悠光)

 「ものまねされる人」にとってものまねされることは、嬉しいことなのだろうか? ものまねされたことがないので分からないのだが、どちらかというとそれは愚弄というよりは賛辞なんだろうね。「ものまねされる」には、多くのひとに慕われる存在であることが理想だし、場合によっては、ものまねすることで自分も慕われる存在になれるかもしれないからね。ところで「ウニ軍艦」に「きゅうりも乗れる」とは知らなかったな。「ウニ軍艦」はひょっとして「軍艦」のものまねで、それに「きゅうり」を乗っけたらカッパ巻のものまね? でも、寿司ネタとしてはどっちも慕われてるよね。こうして世界は、互いを〝ものまね〟しながら、共感のかたちを広げていくのだとしたら、ものまねも寿司もネタには事欠かないことだろうね。

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ほらあれだいまのセックスの説明にぴったりだあの簡単な形容詞        (デザイン担当のMさん/フラワーしげる)

 あるコトバってべつのコトバでかんぜんに説明しつくせるとふつうは思われてるけど、怪しいものだ。なんとか説明しようとして、結局、説明できなかったことが、もっとも雄弁な説明になっているなんてこともあるからね。これは「セックス」の説明のようだけど、なんの説明にもなってないことで、逆に読む人にそれを想像させようという魂胆なのだろうけど、その日の体調や気分によって、きっと変わるのだろうな、この想像上の「形容詞」は。それって〝よかったー〟なのか〝さいてー〟なのか〝オーマイガー〟なのか、あっしには関係のねーこってござんす、と言いきれないところが人間のさが。やっぱり気になるわけよ。でもね、この短歌の説明にぴったりのあの簡単な形容詞を私が決めちゃだめなんです、はい。

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死ぬるときには皆呼びて思ひつきり苦悶の表情浮かべてやらむ          (思ひつきり/堀田季何)

 生前葬ってたまにやる人がいるけど、他人さまを呼んでやるからにはやはり自分に注目してほしい気持ちが絶対にあると思うんだよね。人の死にざまにはいろいろあっても、関係的な本質をもっていることでは変わりがない。でもそれは生き残っている側からしてのことであって、死んだ本人にとってはあずかり知らぬことのはずなんだが、でもこの歌は死んだ本人がじぶんの死に〝あずかり知ろう〟としてるわけだ。いや、往生際が悪いというか人が悪いというか、みあげた心がけだと思います。「苦悶の表情浮かべてやらむ」という心情はすごく分かる。死人に口なしをいいことに、周りの奴らが勝手なことをいえないように、死んでからも睨みを効かそうというのだから、それを告知できる短歌ってやっぱりすごい。

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スローガンみたいな広告コピーみたいな標語みたいな短歌が好きだ(2023年2月2日)(短歌が好きだ/枡野浩一)

 短歌というものをわがくにの伝統に根ざす詩文学表現の一形式としてとらえるかぎりでは、「スローガンみたいな広告コピーみたいな標語みたいな」ものは、たぶん、歌壇的な評価基準からしたら、排除の対象にされてきたのではないかと思う。おなじことは戦後の現代詩の世界にもあって、おおむねそうした類の作品は冷や飯を食わされてきた歴史というものがあった。でも〝そんな詩が好きだ〟っていう心情は、あったにしても詩になりづらかったとみえて、ほとんど聞かれなかったね。でも短歌だとこうやって言えてしまえるんだね。いいんじゃないだろうか。いいかえれば〝短歌短歌してない短歌が好きだ〟ってことじゃないのかな?だったら私も心から賛同するよ。だってこの歌じたいが〝そう〟だから。

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ひとはひと わたしはわたし はなははな 君が散ったら わたしは寂しい    (葬花早々/宮内元子)

 AはAでありBはBであるとはいわゆる論理学上の自同律であって、これを不快だと感じたところから自由な想像のせかいは翼を求めるようになるんだと思ってきた。でも、最近は、そうじゃなくてAはじつはBなんじゃないかということに気づいたようなところが私にはある。「ひとはひと わたしはわたし はなははな」だとしても、「ひと」がもしかして「はな」でもあり、「わたし」ももしかして「はな」だとしたら、「ひと」はつまるところ「わたし」なんだという帰結になるよね。「はな」が散ったので「わたしは寂しい」のじゃなくて、「あなた」が散ったから「わたし」は寂しいのですよ。存在レベルでこれはたしかに言いうることだと、最近になってようやく気づくようになった。ああ、とても寂しいや。

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このままでいれる気がした晴れた日とインターフォンの剥がれたシール      (ポートレート/宮崎智之)

 こころが落ちこんだ日の朝や気持ちがふさぎこんだ日の夜に、自分ではもうどうしようもない、もはやこれまでといった気持ちが勝ってきて、死にたくなるようなときってきっと誰にもあると思うんだよ。私にもあります。でもね、すごく不思議なんだけど、理由もなくまったく意味もわからず、とつぜん気持ちがパーッと晴れていく瞬間ってものも本当にあるんだよ。私がいうのだから間違いないよ。「このままでいれる気がした」っていう究極の自己肯定感に、心からの祝福をおくりたい!おてんとうさまは分かるとして、この「インターフォンの剥がれたシール」って、こういう何でもないものが自分を救うことだってあるのさ。この歌の作者もきっとそうだったんだ、だってこれはリアルであって表象じゃないもの。

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バスを待つきみのかたちの凸凹に朝のひかりが乱反射する            (まわる春、かわる春/村田活彦)

 とおいとおい記憶をはるかによびさまされた一首でした。まったくおなじような朝がかつて私にもありました。高2の春だったとおもいます。バス通学していた私のまいあさの関心事は、キミが今日もバス停に並んでいるだろうかという、そのことだけでした。ある天気のよい朝に、私がいつものようにバス停にむかっていくと、そこにはこっちをみて微笑んでるその「きみのかたちの凸凹」が「ひかり」のなかに乱反射してたんです。忘れもしません。50年以上をすぎたいまでも鮮明にまぶたに焼きついています。この歌のまんまです。わかるよね、なぜ「乱反射」してたのか?それは後光だったからだよ。まぶしくてとても正視なんかできない。ひかりのなかの「凸凹」、それが偶像としてのキミだった。アリガトウ。

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生きるとは胸のどこかにこみあがる、美術室の、牛の、頭、蓋骨、の、眼。    (ジュース、ジュース、ジュース!/和合亮一)

 〝わからない〟を〝わからない〟ままにコトバにするって、ひとつの技法であることはそのとおりなんだが、でもなぜそれが美をはらむのかが、じつはわからない。コトバのもつ美なのか、コトバがかもしだす美なのか、コトバがうつしだす美なのか、かりにそれが分かったところで、美がよってきたる源泉がどこなのかわからない。だから、惹かれてしまうのも美のもつぬぐいがたい魅力だともいえる。「美術室の、牛の、頭、蓋骨、の、眼。」って、メタファーじゃない、アレゴリーでもない、オブジェでもない、「胸のどこかにこみあがる」いくつかのフィギュール、「生きる」とはその途切れがちな連鎖だといわれているね。コトバにできない美があること、それが「生きる」ことだと、コトバは究極そういってるね。

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人違いだが「よぉ!」と手を上げて座る 自分が誰かであろうとよい       (街を歩けば/ikoma)

 アイデンティティというものが未確認だと、人は焦りまくるもの。じぶんが宇宙人になってしまうような、そんな危機感となって来襲するのかと思いきや、存外そうでもない生き方があるんだと教えてくれる。自分が誰かではないことって、けっこう気楽な面もきっとあるんだろうし、相手がじぶんをちがう誰かだと勘違いしてるときってマジで自分が自分でなくなれる唯一のチャンスかも? だから錯覚でもなんでも「自分が誰かであろうとよい」と言いきれるってとてもおおらかな気がする。それを許してしまうのが東京なのだろう。最近スタバで勉強する人が多いのもそのせいかな?そこではお互いが無言のアクター、アクトレスになり、内面はともかく外面はかんぜんに自分のものじゃない時間が守ってくれるからね。


 さて、『胎動短歌』(Collective vol.3)をめぐる私の読み解きの後半戦も、こんなかたちで無事終了です。
 いや、とっても面白かった。存分に楽しませていただきました。ここに集ったすべての書き手のかたがたに、この場をかりて心からの感謝をお伝えします。ありがとう!!!


短歌評 迸る内面の発露―大田美和の「正述心緒」 髙野 尭

2024-02-22 16:08:14 | 短歌時評

 「KY」とか「ソンタク」とか、もう使い古されてしまって言葉にしようとさえ思わない習慣というか態度をあたりまえのようにとる風潮というのは、なにも政治のセカイにかぎらず、ボクたち世間一般で人口に膾炙した処世術だということはすでに周知の事実だ。特に「KY」という世間知は幼児期のある期間を過ぎると、ボクたち世間一般は言葉を飲み込むような習性を会得する、たとえ口から先へ言いかけたとしても、思ったことはしっかり飲み下してしまう。これは日本人という血統にかぎったことではない。外国人であっても長年在留されている方ならなんとなくそれこそ空気を読んで身に着けてしまっているかもしれないのだから。この島嶼はなぜかそういった独特で不思議な空気・エートスに満たされている。こう考えると現代詩という一つの表現形態などが成り立つ環境にボクたちはいるのではないか、とも言えそうだ。ストレートに言いにくいことを婉曲したり、言葉にできない蟠りをメタファー化したり、方法論は書き手と同じ数だけあるだろう。攻撃性さえ抑制しておけば支持されるかどうかは別として、生き残っていくコトバの生存可能エリアはいくらでもありそうだ。一種のニッチな癒しの時空間であることには間違いない。
 さてカテゴリーうんぬんの議論は脇に置いいとくことにする。2023年9月に上梓された大田美和『とどまれ』(北冬舎)がそんなジャンルの垣根を超えた耳目を集めるに値する作品集としてボクの眼に引かれた。「とどまれ」というタイトルは、それを目にした読み手かあるいは本などには見向きもしない非読者層に宛てられたのかは定かではないが、命令形の命法にまずリアクションを求められる。書店でこの題字を眼にしたなら、ここを立ち去らずよそ見などしないでこの本を買いなさい、と言いたいのだろうか、とか。それはさておきしばらく読み進んでいくと終盤でタイトルポエムらしき一句に出くわす。タイトルを忘れたころに登場する一篇だ。

「木枯らしの前の楓のあかあかと「若さはしばらくそこにとどまれ」   (Ⅳ男傘)より

 ユン・ドンジュの詩作品『いとしい記憶』から抜き出された詩句「とどまれ」を引用しつつオマージュ化された自己と他者の哀しみを、二重に映し出すよう重層的に変奏する作品だ。楓のあかあかとした命の盛りの輝きに魅せられた作者主体は、原詩ではもともと故郷を強制的に去らされる駅舎での去りがたい複雑な心境を異境の土地から追憶し「とどまれ」と心内に叫ぶ。今なら「時間よ止まれ」といいそうなフレーズを、作者自身の老いから若さへの追憶というやや自嘲気味の気分とをだぶらせることで、どちらも二度と取り戻せないという一種捩られた感情の逸出を演じている、とでもいおうか。年月とともに清冽な記憶と代謝された物質が同時に沈みこみ、そこには降り積もっていくメランコリーな体内の奥処に据えられた壺の哀しみがある。
 つい「とどまれ」に執着してしまったが、このまま逆順序でボクが気になった収録作品に触れていくことをお許し願いたい。というのも、これはおそらく作者の創作意欲を鼓舞した動機ではないと思うのだが、テーマ別にⅠからⅣに章立てされてはいるものの、それはあくまでもイギリス滞在記だとか朝鮮学校だとか大田氏が場所的に遊歩し体験した大凡物理的な空間の配置にそって配慮された順序だと推測するのだが、作品それぞれが一冊の書物の中で配置されたそれぞれの立位置で発露し開かれたセカイのトポロジーは、何か別の解釈層を形成するのに一役買っているのではないか、ボクにはそう見えるのだ。だから継起的な順列の意識をあえて壊すためにといえばよいのか揺さぶりをかけるために、(どこからでも拾い読みはできるのだが)まとまりよく味わうことを避けて、数は少ないがアトランダムにピックアップしながらその何かを炙りだしてみたい。
 
舞姫を送るとて待つ裏口に三日月の舟、櫂は彗星            (Ⅲ 海に拓けよ)より     

 この句は定型によく即した安定感を味わえるが、「舞姫」を鴎外の舞姫とだぶらせることで、異国の見知らぬ理不尽な気味悪さと夢の中に奔る彗星のごとく幻視を連想させる一方、裏口という世俗的な扉を設けることで作者主体の実存にかかわる内面に蟠る危うさの
実存・溢れ出とも、ボクには受け取れてしまうのだ。または

依り代をさわに作れと宣らすべしさやにさやげる四月の木末       (Ⅱ 漂着)より

 この句は一見古典的な凡庸な措辞を組んでいるので、秀作だが何かを見落としやすい、とボクは観る。それは何かというと、冒頭の「依り代」や「さわ」「木末」がよく視ると作者身体と関わっていそうだからだ。この歌集全体に通底している作者身体が様々な状況下で経験し内面から外へ、または内へ吐露し堆積していくあれやこれやが、四月の気風転換の時節に身を置くことで、その身体中全篇に通底し蟠りあるいは渦巻いている熱き多情を冷ます自浄の表現相を呈しているのではないかボクはそう味わってみたいのだ。それはこの句に続く次句との連関で明示的にその感
情吐露がわかる。

楽しげに花や羊や牛を撒く 最後は黒く塗りつぶすのに         (Ⅱ 漂着)より

 「塗りつぶす」という感情行為がある。次は、
 
無人の地下鉄とリフトで「入国審査」まで運ばれる恐怖の未来へようこそ 
 
「入国審査」は戦場ならずも泣き叫ぶ子が何をしたか誰も聞けない    (Ⅰ イースター・ホリデイ)より

 いかにも膚感覚と視聴覚を震え上がらせるリアルな吐露だといえよう。思ったままに投げだされた心の叫びが誰かに届かないことなどありえようか。むろん定型としての体をなしてはおらず、思いっきり逸脱してしまっている。一旦作者の内部で自己に受け止められることなく発露された赤裸々な状況描写だ。
 このように大田美和は、内部に沈潜した内面の深層から、間テクスト性も含めメタファーなどの高度なレトリックを駆使する共に、皮膚的な表層へと往還できる旅人なのだ。


短歌時評196回 「ただごと歌」の陰影──今井聡の『ただごと歌百十首──奥村晃作のうた』について 竹内 亮

2024-02-05 15:28:47 | 短歌時評

 出たばかりの今井聡『ただごと歌百十首──奥村晃作のうた』を読んだ。一首評を集めたものだが、評のなかで歌の背景の奥村の伝記的なエピソードが今井が奥村本人に聞いたものも含めて書かれている。

 新卒で三井物産に入社したのに1年で辞めて、教員になろうと大学に再度入ったというのは聞いたことがあったが、会社を1963年7月に退職して、すぐ後の10月に慶子夫人と結婚したというのを今井の本で知った。それから、奥村家の犬はプッキーというということ、それは長男剛氏がこいぬ座のアルファ星、プロキオンから名付けたということも。

 奥村の歌は、「ただごと歌」といわれている。奥村は「ただごと歌」を最も微弱な気づき、発見、認識というが、今井のこの本によって奥村の歌の背景の意味が増幅され、奥行きが生じる。「ただごと歌」が微弱なものとしてつくられるとして、読む段階では、歌人についての知識や文脈がわかっていた方がよく理解できるし、おもしろさが増す。その意味で今井の本は奥村の歌を読む上で重要なものだと思う。

 今井は「ただごと歌」自体の分析にも取り組んでいる。「述べる文体」「述べたおす文体」という指摘がある。そして、奥村自身のいう「物に即して」「叙述をする」ものであるが「瞬時を写し取る」写生の歌とは異なるということについても検討している。

 そして、これらの評を通じて、今井が奥村が好きなことが伝わってくる。そのことは奥村の歌の世界にもうひとつ温かな陰影を付け加えている。奥村のアンソロジーとしても読める。

ラッシュアワー終りし駅のホームにてなる丸薬踏まれずにある  『三齢幼虫』

然ういへば今年はぶだう食はなんだくだものを食ふひまはなかった『鴇色の足』

結局は傘は傘にて傘以上の傘はいまだに発明されず       『父さんのうた』

どこまでが空かと思い 結局は 地上スレスレまで空である   『キケンの水位』

花びらの数ほど人を集めるか上野の花は、七、八分咲き     『スキーは板に乗ってるだけで』

大きな雲大きな雲と言うけれど曇天を大きな雲と言わぬ     『八十一の春』

蟻と蚊はずっと居たけどコロナゆえに大気が澄みて蜘蛛が戻り来 『蜘蛛の歌』

(2024年2月、立花書院。2000円(税別))


短歌時評195回 「ブーム」再考 小﨑 ひろ子

2024-01-08 21:33:23 | 短歌時評

 いわゆる「ブーム」と言われる短歌の現在。大きな書店に出向くと、売れる本としての歌集が書棚二竿くらいにずらり並べられている。その作者は、かつてのような結社の先生や著名歌人ではなく、ネットや総合誌の人気作家としての歌人たちが圧倒的に主流、かつてのような歌集の雰囲気とは相当に異なっている印象である。
 短歌の市民権が広がるのだからよいこととして前向きに捉えるとしても、やはり違和感が先に立つ。一言でいうなら、「雑踏を歩いているような感覚」。世代の問題が「ない」などという欺瞞は通用しないので、そのせいでもあることはほぼ間違いないが、どうも「好きな作家や気になる作家の本がたくさんあってうれしい」といった素直な感想を持つことができない。今はこうなんだからと順応すればかわいいシニアにもなれそうだが、そもそもひねくれているのかもしれない。何かさみしいような気持ちになって、自身が短歌に親しんできた時期の一般的な短歌の本を開いてみた。

 『日本の名随筆別巻30<短歌>』佐佐木幸綱編(作品社、1993)。当時の著名歌人の文章が集められて紹介されている。それぞれ元になった書誌があるので本当はそちらをきちんと読まなくてはいけないのだが、この本はコンパクトで読みやすいのがよい。古書店で100円で手に入れた書籍だが、大きな図書館にあるだろう。
 斎藤茂吉の写生についての文章は、『童馬山房夜話第三』(1946)から。「世界がずんずん新しくなつて行つてゐるのに、新しい写生の歌の出来るのも当然であつて、その覚悟に動揺を来すやうなことがあつてはならぬのである」。なるほどと、ちょっと安心する。短歌について、自分を含む自然についての写生(リアリズム)が基本中の基本とどういう経緯かわからないが思わされてきた私には、初心に帰らされるようで、実に心が休まる。
 近藤芳美は、「内奥・根源」(『短歌思考』1979)という文章で、「わたしたちが今みずからの内部に見詰めている世界は、茂吉、あるいは彼以前の作者らが見詰めていたものとはちがう。何がちがうのか、それ自身の自己完結、ないし自己尊厳の世界を、彼らのようにはわたしたちはもはや持ち得ないし、同時に、それはあり得ないと知ったことと言える。」「わたしたちが戦争と戦後という、歴史の激動を身をもって一つの時代として生きたことによって」「すなわちわたしたちの存在であり存在の〈内奥〉であるものはそれに関り、そのことと密接し、からみ合うことなくしてあり得ない」私は未来短歌会に所属しているから身びいきになりそうなので、戦争と戦後を原体験とする近藤芳美についてはとりあえずこのくらいにする。
 俵万智「歌が生命(いのち)をもらうとき」(『よつ葉のエッセイ』1988)という文章では、「(第一歌集の『サラダ記念日』が)半年余りの間にしてしまった一七〇万回の出会いをどうとらえたらいいのか」「一生かかってもできないほどの出会いを、この一冊の本は、あっというまになしとげてしまったのだ」と述べ、

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ

 という歌への反響に、「私が一首を詠んだときのあたたかさではなく、読んだ方の心の中に生まれる新しいあたたかさ」を思ったという。

思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ

 には、「(当時の)NHK学園のテキスト「短歌春秋」に、この一首にまつわる五人の方の五様の思い出が掲載されたことがあった」「歌が私の思いもよらない生命を、ひとつひとつの出会いの中から得ていくということ、その不思議。」「そしてそれが、言葉というものの魅力なのだと思う。そしてそれば、大げさに言えば、〈文学〉ということなのだと思う」と書いている。短歌の中の思いを受け取った読者は、「まるでわたしのために存在するかのような歌」と思ったに違いないし、歌集に感動して自分も短歌を作ってみようと思う読者ももちろん現れたことだろう。
 随筆集の中で心に残ったのが、金井恵美子(「愛の歌 歌う声・歌う言葉」『短歌の本 第一巻』1979)。「誰でもが詠みうるものとしての、極めて短いこの〈詩的〉言語形式には、俳句とはまた別の、不気味さがある。その不気味さの集大成が『昭和万葉集』という企画であることはいうまでもないことだろう。この戦時下の短歌群は実にグロテスクな言語として、一種のショックを与える。ある実質的ななまなましさとすれすれのところで―特攻隊という絶対的背景と不利不即のところで―詠まれる辞世の歌は、〈定型〉とはまさしく〈制度〉そのものであることを、無趣味なまでにあばき立てているではないか。」「ありふれた経験をありふれた感性的言葉であらわすのがふさわしい経験というものが誰にでもあって、そんな時、流行歌を歌うなり聞いてみたりするのと、与謝野晶子の短歌を読むなり口ずさんでみるのと、どれほどの違いがあるのだろう。」「歌とは、しょせん、どう巧みに歌われようと、言葉の蛆の難しさでもって空気を切り裂くものであり、最悪の場合には制度としての言葉をだらだらとつむぎ出すカイコ、すなわち《絹》の言葉ではないだろうか。
 宮柊二の「孤独派宣言」(「短歌雑誌」1949.6.、『現代短歌系』1973)。「文学といふものは、発想の中に抵抗を含まなければ自立しないのであるまいか。抵抗に対決してある内なる意志が美しい張り方として作品に見えて来なければその文学の自立性は窺えない。ただ、文学は一の調和統一だから、作品は享受へ呼びかける充足として堪へられなければならぬ。」「作家が自身の内なる抵抗をいかに越えてゆくか、その前におのれ自身の内なる抵抗をいかに越えてゆくか、その前におのれ自身の内なる抵抗を、(略)いかに作家の誠実として抵抗に設定してゆくか」「歌声は低くとも、それは自分の歌ごゑで無ければならない。
 あるいはテーマを見つけやすい編集の仕方になっているのかもしれないが、今読んでも面白くて引き込まれる文章ばかりである。そう感じるのは私だけ? とすこし不安になりながら、ブームというか大衆性というか俗性というか、そういったちょっと高尚な文学的なものを目指したい人が嫌悪するものの代表が、近現代、女性の短歌であったことなどを思う。嶋稟太郎氏が「未来」1月号の時評で「女人短歌」について取り上げていたが、厨歌とくくられるような歌や女性の短歌も、男性を中心とする歌壇ではちょっと低いものとして捉えられていた歴史がある。短歌形式そのものがそもそも女性形に近いのに、「女学雑誌」に短歌のコーナーがあり付録に歌会始の歌集が付いたりしていたのにと不思議なのだが、そうなると、第二芸術、大衆文芸と蔑されてきた詩型である。今度は「ブーム短歌」(そんな言葉はないが)と開き直るような立場から、はっきり自立して評価を得る歌群が現れることも予想されてくる。

 短歌を始める契機が、「身近な誰かが作っていた」「学校で習った(小説等の文学が教科書からかなり削除されても、現代短歌は結構教科書に登場しているように思うが気のせいだろうか)」「感情表現の希求」「手軽な遊び」「ファスト名声への野心」といったものであったとしても(これらの後の二つが、たぶん私を不安な気持ちにさせている要素。)、何らかの原体験が作品をより深いものにすることは間違いない。無論そういう原体験が必要とかそういうことではない。むしろそんなものない方が幸せで、社会に敏感に開かれた感性や真剣な問題意識、ある程度の言語技術があれば、歌人として歌をつくることは可能なのだ。

 ところで、年末、私は家でテレビに紅白歌合戦を流していた。本来流行歌はあまり好きではないし男女で分けることにも疑問符がつくが、今の風景を見てみるのもよいかと思い、ここ数年そういう年末を過ごしている。そういえば昨年も紅白に触れた気がする。ウクライナのヴァンドゥーラ奏者ナターシャ・グジーが「津軽海峡冬景色」の伴奏に参加し、ジャニーズ系タレントはすっかり一掃され、K-POPグループが歌い、ディズニーメドレーが流れる。そんな日米韓の饗宴をテレビに流しながらスマートホンを眺めていたら、SNS「X」では、俵万智さんが審査員をされていることが歌人のタイムラインを賑わせる中、<#歌合戦より即停戦>というハッシュタグ付きのPOSTが流れてきた。ウクライナのこともあるが、イスラエルによるパレスチナのジェノサイドがひどくなっている時に、「歌合戦」等でうかれていていいのか。事実を知って意見を表明しなくていいのか、という怒りから生み出されたハッシュタグ、もちろんすぐにSTOP KILLING NOW!と反応したが、その運動にすべてを投じる力も余裕も私にはないことも確かだった。そして元旦。能登半島の断層が動いてたくさんの人の日常が破壊された。ウクライナよりもパレスチナよりも身近な自国の惨事に誰もが背筋を凍らせたが、影響がない地域の当事者ではない人の日常はこれまで通り続く。そんな中、2日には羽田の事故。「令和6年能登半島地震」「羽田の事故」、と言っても、時間が経てば当事者以外には実感を伴わないものとして風化していくことと思うが、東日本大震災から13年目、地震・原発といったテーマはより重いものとして私たちにのしかかるだろうし、それらを含むすべてに関わる政治についても注目は集まり続けることだろう。
 そんな中、ブームの中の歌や歌人達がこれからどういう風に短歌の世界を彩っていくか、静かに見ていきたいと思う。                        

(2024年1月6日)