「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評第150回 2019年に<銀色> 水沼朔太郎

2019-10-28 22:04:21 | 短歌時評

  蒼井優が、まるで銀色。パソコンをおなかに載せてもういちど見る

 幸か不幸か、わたしはこの歌を無記名歌会の詠草として見ることができた。そのときに、いくつかの歌を連想した。〈あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな/永井祐〉〈窓の外のもみじ無視してAVをみながら思う死の後のこと/永井祐〉〈ぼくは約束を守れる AVを見ながらゆっくりする深呼吸/阿波野巧也〉〈でたらめなルールで騒いだチェスのあと主人公が死ぬAVを見る/我妻俊樹〉……一首目は蒼井優と永井祐、その永井祐の青い電車の歌という駄洒落的連想だけれど、それ以外の三首は男性歌人がAVを見る歌という文脈で浮かんだ歌だ。わたしの評もそこが中心になった。曰く、「ああ、なんかすごい感慨深いというか、2019年だなあって思いました。永井さんや阿波野さんや我妻さんにAVを画面で見る歌があったのを思い出したんですけど、そこではAVって言われるだけで固有名は出てこないんですよね。そこに固有名が登場して、しかもそれが蒼井優っていう」……AVを画面で見る男性歌人の歌の系譜からの2019年的ずらし、というのはこの歌のひとつの読み筋であるとわたしは思ったのだけれど、当日の歌会で主に議論の中心になったのは〈まるで銀色。をどう読むかだった。銀色という発想自体に驚きを持つひと、銀色に作者の価値判断を読みにいくひと、銀色は銀色のまま読みたい、というひと、銀色はパソコンの色から導かれているのでないか、と読むひと。読みは別れた。わたしは、銀色に作者の価値判断を読みにいった。ここで見られている蒼井優とはほぼ間違いなくお笑い芸人・山里亮太(南海キャンディーズ)との結婚会見上での蒼井優だろうが、その場面での彼女に〈銀色〉を連想する。オリンピックでは金銀銅の三つでワンペアだけれど、一般的に銀は金とペアを成す。金銀を二項対立的に捉えたときに表/裏、男/女、1/2というように。いま、金/銀と男/女とをあたかもパラレルであるかのように書いた。これは蒼井優が銀色と価値付けられた結果からの連想である。この〈銀色〉という価値判断を男女どちらの性別の作者によってなされたのかはこの一首にとって無視できないことだ。以上のような理由からこの歌は十名二首選形式の歌会で最多得票数を獲得したが、わたしは票を入れなかった。歌会の最後に、作者名が読み上げられた。作者は平岡直子。一首は後に『歌壇』2019年11月号の巻頭作品二十首中の一首として発表された。それからわたしは平岡にほかに銀色の歌があったことを思い出した。

  絶対に許してもらえないようなことをしたさが銀色になる/平岡直子

 初出は我妻俊樹とのネットプリント「ウマとヒマワリ」(1)。〈絶対に許してもらえないようなことをしたさ〉は「絶対に許してもらえないようなことがしたい、その気持ち」とも「絶対に許してもらえないようなことを(すでに)したのさ」とも読めるがいずれにしてもその後ろめたさに相当する感情が〈銀色〉になるという。この歌で歌われている〈銀色〉に掛かる修辞〈絶対に許してもらえないようなことをしたさ〉をダイレクトに蒼井優の歌に関連付ける必要は必ずしもないけれど〈銀色〉に作者つまり平岡直子の価値判断を読みたいわたしとしては関連付けて読みたい。とはいえ、別の一首のフレーズである〈絶対に許してもらえないようなことをしたさ〉をそのまま〈銀色〉に代入したからといって明確になんらかの思想、価値判断が見えてくるわけではない。〈銀色〉から平岡の蒼井優その人への感情、蒼井優が結婚することへの感情、蒼井優の結婚相手が山里亮太であることへの感情などなどがわかるわけではない。しかし、同時に、矛盾するように聞こえるかもしれないけれど、わたしはなにも平岡が完全にフラットに〈銀色〉という単語を使用したとも思わない。ここでわたしがフラットという用語で伝えたいニュアンスはそもそもフラットな言葉などは存在しない、という一般論よりももう少し感覚的な領域でのそれである。さて、AVを画面上で見ていた男性歌人はいちようにAVそのものを見ているわけではなかった。永井の歌では(外のもみじも無視されているのだが)AVをみながら〈死の後のこと〉が思われ阿波野の歌ではAVを見ることよりも〈ぼくは約束を守れる〉という意志が優先されぼくは〈ゆっくり〉深呼吸をする。我妻の歌では見ているAVの内容が〈主人公が死ぬ〉AVだ。これらの先行歌と並べたとき平岡の歌は明らかに違う性格を帯びている。〈蒼井優が、まるで銀色。パソコンをおなかに載せてもういちど見る〉。〈もういちど見る〉と書かれたことでわたしたちは何度でも〈もういちど見る〉ことができる。銀色の蒼井優を。

お詫びと訂正:前回のわたしの時評「2019年の『ピクニック』」において宇都宮敦の歌の読みをめぐるくだりで「うるしのこ」の対談記事を取り上げ引用した。そのさい、「他者が登場してばっさり斬られる。内心だけの出来事とも読みうるけど、自分の視点の先を行ってるから他者と思う。そこで、さらに抱きしめて弱さもまるごと肯定してくれるんだから、読者としてもその人には「敵わないよね」と思っちゃう。」(漆原)「自分では覆しがたいものを自分より先に察知していて、しかも大きな肯定をくれるところに、読者も主体に感情を移入して安堵しちゃうね。」(のつ)と記したが、正しくは両方とも漆原の発言だった。お詫びして訂正します。

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