「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 歌と句の間に 依光陽子

2015-06-30 17:36:53 | 短歌時評
 短歌と聞いただけで思わずごめんなさいと謝ってしまうほど短歌は苦手である。
 万葉集以降の分厚い歴史がドミノ倒し的に迫ってきて逃げ出したくなる。実際に作品を読もうとすると、鉄棒に人が並んでぶら下がっている風に見えてきて思考が停止する。短歌の言葉の湿度の高さは熱帯雨林を彷徨っている心持ちになってくる。何首も続けて読んでいると誰かに個人的な話を長時間聞かされているようで適当に相槌を打っているような読み方になってくる。俳句が水に落とす一滴のインクだとすると、短歌は香りにつられてうっかり手繰ろうとしようものならずるずると葉やら実やらがついてきて収拾がつかなくなる葛の花のような印象。七七が多いだけなのにどうしてこんなに長く感じてしまうのだろう。体質的に受け容れ難いのだ。

 しかし私はほとんど短歌を知らない。だからこれはと入れ込んでしまうような短歌に未だ出会っていないだけなのかもしれない。そう考えて、とりあえず短歌も作る俳句の友人に訊ねてみた。条件は恋愛モノでない事、前衛的で言葉が乾いている事、類想的でない事。
 例えば、と挙げてみたのが俳人の山田露結氏がこの短歌評で挙げていた笹井宏之の次の歌だ。

    内臓のひとつが桃であることのかなしみ抱いて一夜を明かす   笹井宏之
 
 この歌なら好きだ、と思ったのは「内臓のひとつが桃である」という部分から、私淑する永田耕衣の句が次々と浮かんできたからかもしれない。

    白桃の肌に入口無く死ねり    永田耕衣
    白桃身嘴のごときを秘めている
    白桃を見て白桃の居泣くなり
    見る人を海となすらん老白桃
    大白桃一休をまだ滴れり
    白桃や或る影を出で難く行く
    白桃をまた白桃と言う勿れ

 友人は笹井宏之の略歴やその周辺の人たちのことを教えてくれた後、こう言った。
「桃っていえばエロスでしょ。エロスの喩」。
 え? エロス・ノ・ユ? あ、湯じゃなくて喩か。
「この歌は私も好き。でも、かなしみ、というのがイマイチだね」
 これは私も薄々感じていたことだった。エロスとは思わないが“喩”に偏っているということか。俳句だったら自由律的に「内臓のひとつが桃であつた」と言い切ってしまえば逆に沈黙が拡散し、読み手がその「かなしみ」を暗黙裡に読み取る。「ことのかなしみ抱いて一夜を明かす」から寄せて来る感情の漣で、読む毎にだんだんに湿り気をおびてくる言葉のウェット感が性に合わなくなりつつあったのだ。先に挙げた耕衣の<大白桃一休をまだ滴れり>は一休にエロスの要素はあるが、桃を喩とまでは言い切れない。喩に見える書きぶりだが、同時に桃の実在感が強くある。
「なるほど。じゃ、これは?」

    こん、という正しい音を響かせてあなたは笹の舟から降りる   笹井宏之

「これは二人で笹の舟に乗っていて、一人が先に降りたんだね。この笹の舟も実際の舟の喩でしょうね。でもこの“正しい音”っていうのがわからない。ここがこの歌の核になる言葉だと思うんだけど…。多分“正しい音”っていうフレーズが耳から入ってきて、それを歌に使ったんじゃないかな。そこが作品としては完成していない。」
 私は、この歌はイメージだが笹の舟は喩ではなく笹の舟そのもので、流れに留まっている様が見える。作る時、指を切るほどの笹で出来た舟。当然笹の舟に実際の人間が乗れるはずはないが、そこはイメージなのだから大きさの比率が合わないことは気にならない。この歌からは「こん」という音がクリアに聴こえて、しかもリアルだ。そして笹の舟が流れてゆく先が黄泉のような、どこか永遠性を感じる。「あなた」は生者か死者かわからない。だが二人で乗っているのではなくて、乗っていたのは一人で、作者はその一部始終を見ている。全体的に白い霧の中のようなビジョン。と反論したものの、確かに「正しい音」はどう捉えるか消化しきれていなかった。自分が乗っていたと捉えるか、傍観者だったと捉えるかは、単に解釈の違いを超えて短歌と俳句の、読み、ひいては詠みの立ち位置の違いを感じた。
「そうね。彼岸と此岸かもしれない。どっちが生か死かわからないけど、一人が降りたんだね」
 あくまで乗っていたのは二人、と譲らない友人と、じゃあそれって、『銀河鉄道の夜』の短歌バージョン? と、笑い合ったのだが、なんだか途端につまらなくなってしまった。

 そもそも作品は現実に照らして、意味に置き換えなければならないのだろうか。
 句会の選評や雑誌の鼎談などでも、理に適っていないものは排斥される傾向が強い。実際にあったとかなかったとか、本当だとか嘘だとか、言葉が自然だとか無理だとか、わかるとかわからないとか。言葉で作られた作品が仮に抽象であったのなら、抽象のまま受け止めてはいけないのだろうか。非存在は非存在として受け入れればいいのではないか。「切れ」や「間」といった沈黙を内包する俳句を書く人においても、その傾向は顕著だ。

 もちろん優れた解釈が作品を一層作品を輝かせる、ということはあるし、特に俳句などは読み手あってこその作品である。言葉を的確に用い、正しく理解することは基本的には重要だ。ただ、すべて意味に転化しきれてしまうような作品はつまらないと思う。言葉では説明できない部分にこそ凄さがある。抽象の具体化と同時に具体の抽象化が成されているような作品に。

 先日、デレク・ジャーマン監督の『BLUE』という映画を観た。1993年に作られたこの作品、映像は青一色のみが投影され、生活音と音楽のサウンド・コラージュ、そして散文と詩の朗読が流れる。観る者は視覚からの情報がないまま、美しいブルーを目に湛えながら耳から入ってくる音と言葉(字幕の文字)で想像力を働かせる。

    イメージのカオスで君に“普遍の青(ユニバーサル・ブルー)”を捧げよう
    ブルーは魂へと至る開かれたドア
    目に見える像を結んだ無限の可能性
映画『BLUE』より


 この映画はイヴ・クラインへのオマージュだと言われている。イヴ・クラインは物質・非物質の在り方を探求し、物質を伴わずに広がる空の色・青に執着した現代アートの作家。彼は魂が物質世界に縛られない空虚な状態において「物質の非物質化」「非物質の物質化」を見せようとする作品を発表した。
 イメージのカオスを言葉で具体化、物質化させてゆくことは、短詩型の作品を詠むという行為に通じるだろう。ただ、短歌は“わたくし”に近く、また述べきることが出来る長さがある分、具体からカオスへ向かうベクトルの方が弱くなるのかもしれない。さらに言えば、カオスをカオスのまま昇華させることは短歌的ではないのかも知れない。

    肩の辺に青い昆虫が来てとまるやさしい季節もいつてしまふ   齋藤史
    あをい眼窩に透明な水たたへられちかちかと食む魚棲みけにけり   

 具象と抽象、物質と非物質などと考えながら諸々な作品に当っていたら、偶然、青を見つけた。美しい青、まるでクライン・ブルーだ。昆虫は物質でありながら青と限定されたことで抽象に寄り、やさしい季節は擬人化されて物質化する。あをい眼窩にはいるはずのない魚がいて、「ちかちか」という擬音によって実存に近い錯覚を覚える。

    草の実のこぼれる時に音がするお寺ではもう鐘が鳴つてゐる   齋藤史
    水に沈めるものみななべて抜殻の ホース 洩瓶 ビニール手袋 
    空の風船の影を掌の上にのせながら走り行きつつ行方も知らぬ

 草の実のこぼれる音と鐘の音、二つの音の並列だけで大小の物質と距離・時間という非物質を融合した作品。明確すぎる事象が描かれているだけなのに、じっくり読めば読むほど迷路に嵌りそうになる。水に沈んだホース、洩瓶、ビニール手袋は本来の用途を失って、すべて等しく抜殻の物体。虚だ。空の風船の影を掌にのせながら行方もわからなくなった人は、実存した過去が消去され、存在から非存在に変えられてしまっている。

    あいだじゅう ひと の からっぽ おもいま、した わたし にぽん ご さい ご おはよう   斉藤斎藤

 ひらがなの連なりと不規則な空白=虚(うろ)は、カタコトの単語という枠さえ外され、パラパラの炒飯のように散らばっている。日本での最後、日本語の最後に発せられた言葉が一日のはじまりの挨拶である「おはよう」であったことの皮肉、可笑しみ。この人物の目に映ったいろいろな人も、読み手の目に映るこの人物もからっぽで、しかし空虚さの後ろにある泣き笑いのような感情の歪みは澱のように溜まって物質化している。私はこの人物を知らない。だが思い当たる人たちがいた。

    冬空のたったひとりの理解者として雨傘をたたむ老人   笹井宏之

 この「老人」も同じ。虚でありながら実。私には雨傘をたたむ姿がくっきりと見える。かつてどこかで会ったことがある人。あれはもしかしたら、青一色の世界を見た荘周じゃないか。

    からだじゅうすきまだらけのひとなので風の鳴るのがとてもたのしい   笹井宏之

 非存在性を打ち出しながら、同時に存在性を押し出しているような歌。「ひと」と言いながらも「ひと」は輪郭と感情でしかなくなっているところに共感して、一読覚えてしまった歌だ。対象に入り込んで、対象と同化しながら俳句を書く癖がついているからだろうか。俳句はやはりモノで短歌はヒトなのかなぁと漠然と思った。

「じゃあ、この歌はどう思う?」
と友人に「からだじゅう」の歌についても訊いてみた。
「細胞と細胞の間には隙間があるって言うでしょ。そこを風が通って…」という言葉を遮って、「もう、どうして理詰めで解釈しようとするのかなぁ。まるごと受けとめればいいのに。この感覚わかるんだよね。野原に立てば野原と同化するし、海で泳げば海に溶ける感覚。実際には物体としての自分は残っているのだけれど、完全に自分は無くて、からっぽの自分を風が通って行く。その時もし風が鳴ったら絶対楽しい。短歌の作品としてどうなのかよくわからないけど、この歌を口ずさむとからっぽな自分を肯定されたようで救われる。とにかくごちゃごちゃ考えずに、いいなと思った。それって重要じゃない?」と息巻く私に友人は呵々と笑って言った。
「結局、幾通りにでも解釈できるのがいい歌なんですよ。」

 細胞と細胞の間に風が通るというのも、物体が極限まで分裂したら非物質と言えなくもなく、それも悪くないな、とあれこれ頭を巡らせながら、つまるところ私は、短歌においても俳句と同様、抽象の具体化と同時に具体の抽象化が成されているような作品を好むのだということだけははっきりしたのだった。同時に、俳句において極上の俳句を読みたいと常に願いながら読みを重ねている人間として、いつか心底揺さぶられる短歌にも出会うことができたら、と思うのだった。


    小鳥が枯枝にとまつてゐる
    自分がとまつてゐるのだ

    見れば 見えるものは 皆自分である

    聞けば 音はみな自分である
高橋新吉『自分』


※筆者の希望により、短歌の引用は赤字、他の引用は青字とさせていただきました。
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