「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 穂村弘とは社会問題である~穂村弘3.0 橘 上

2015-12-01 12:09:03 | 短歌時評
 何で短歌について書くのは気が引けるのに穂村弘について書くことにはそうならないのだろう。
 その答えについて書く前につぎのことを書いておきたい。

・彼氏・彼女いない歴〜年
・元サヤ
・ツーショット
・全然〜(肯定での意味。「全然大丈夫」など)
・〜男子・女子
・(芸が)スベる
・(芸、空気が)寒い、サブイ
・逆ギレ
・ブルー(な気持ち)
・ドS・ドM
・ドヤ顔
・アガる
(参照:参考/とんねるずとダウンタウンが作った言葉やべぇwwwwwwww

 これらはとんねるずあるいはダウンタウンが作った/広めた言葉であるらしい。我々はそうとは知らずにこの言葉を使っている。中には彼らの番組を見たことがないのにこの言葉を使っているものもいるだろう。そう、彼らはジャンルを超えた社会化された存在なのである。芸人松本人志を評価するのに彼のコントを見なければ話にならない。しかし、彼らのコントを見なくても彼らのつくった言葉やキャラクターに言及することは可能なのだ。
 どなり散らす唇の分厚い短髪の男性、気難しげに眉間にしわを寄せるひげ面の坊主頭の男性・・・これらは浜田雅功と松本人志のお馴染みといっていいほどの典型的なアイコンだが、今問題にしたいのは次のアイコンである。
 長めの前髪を横分けにしたヘアスタイルに黒ぶち眼鏡、繊細さと幾ばくかの頑固さを宿した瞳にやや冷笑的な微笑みをたたえる男性・・・そう、これは穂村弘のアイコンである。と同時に短歌男子あるいは文化系男子のアイコンであるといっても過言ではない。穂村弘の存在を知らなくてもこのアイコンとしての穂村弘は広く認知されている。
 例えば穂村弘を知らない人に、文化系男子の特徴をあげてもらい、その特徴をもとにデッサンをしたらほぼ穂村弘の顔が出来上がるだろう。穂村弘のアイコンは日本人の無意識化に広がる原風景になりつつあるのかもしれない。そう遠くない未来、「穂村弘」と書いて「ノスタルジア」とルビを振る日がやってきても不思議ではない。
 つまり、穂村弘の短歌について何かを言うことは短歌の範疇の話だが、アイコンとしての穂村弘について何かを言うことは、社会そのもの日本そのもの領域になりつつあるのだ。だから私はいけしゃあしゃあとこんな文を書いても平気な顔していられるのだ。
 文化系男子などという定義があまりに曖昧な言葉があれだけ広まったのは意味の不明確さに反して強烈なアイコンのイメージがあったからだと思う。
 「実像なんて存在しない。あるのは無限に増殖するアイコンのみ(・・)である」という誰かの(俺の?)言葉が頭をかすめる。

 で、ここまで書いて、以下の二つの穂村弘評を引用しよう。

 穂村弘
 86年、初応募の連作「シンジケート」で角川短歌賞次席。その後もファンシーでロマンティックな短歌で若い婦女子を魅了し続ける大人気歌人。また人生の経験値の低さ、生活への恐怖など「世界音痴」を武器にしたエッセイも飛ぶように売れているが実際はかなり器用に仕事をこなすしモテモテだしあまつさえ幸せな結婚をしたのでひんしゅくを買っている。

(小野ほりでい 「ナルシストは今すぐ短歌をはじめよう!」2012年1月11日より http://omocoro.jp/kiji/8782/)


 穂村さんのことを好きな人たちは、穂村さんってかわいいとか、だめな人だとか、恋の甘さをわかっているとか、そういう理由だけで好きなわけじゃなくて、言葉に対する真摯な態度に参っているんだと思うんです。でも、好きな気持ちを伝えたいときに、なかなかいい言葉で表現できないものですから、つい「かわいくて好き」と単純なことを言ってしまう。私もあまりうまくは言えないんですけど、本当はもっと細やかな言いたいことがいっぱいあるんです。個人ブログで「穂村さんかわいい」としか書評してない読者でも、本当はちゃんと穂村さんの言語感覚の素晴らしさを味わい尽くしている人かもしれない。そこは、わかってほしい。
(「言葉の渦巻きが生む芸術(アート)」山崎ナオコーラ・穂村弘の対談より山崎の発言「どうして書くの? 穂村弘対談集・2009年・筑摩書房」所収)

 この二つの穂村評を取り上げたのは、短歌界の外部でよく耳にする穂村評を象徴しているからである。(小野ほりでぃは右に引用した文の最後に「ここまでに書いた短歌の知識は全部ウソなんですけど、」と断りを入れてはいるものの、ここには穂村弘に寄せられる批判(というか揶揄)の一端が垣間見れよう。)
 前者は否定的、後者は肯定的に書いてはいるが穂村に対してのイメージは共通している。
 短歌の実力者でかわいらしくファンシーな短歌を書いているが言葉に対して深く洞察力があるというイメージだ。

 つまり短歌外部での穂村評は肯定であれ否定であれほとんど同じ次元で言葉を発しているのである。
 2015年の現在この二つの穂村評を読んで面白いと思う部分はあっても特に新鮮には感じない。もうこの二つの穂村評はフツーなのだ。いやこの二つを前提として、新たな穂村評を作り上げることが必要なのだ。


 ではそれの前段階として、短歌外の自分にとって穂村弘とはどのような存在だったのかもう一度考えてみよう。

 マイリトルラバーだと? よく人前でそんな事がいえるな。

 この言葉は90年代に一世を風靡したバンド、マイリトルラバーに向けてコラムニストのナンシー関が放った言葉である。一字一句あってるかは微妙だが、確かこのようなことを言っていたと思う。この当時はこんなことを言う人はナンシー関ぐらいだったが、インターネットが発達し誰でも発信できる「一億総ツッコミ社会」が到来すると、誰しもがこの手の批評を行うようになる。(その多くの質はナンシーには及ばないが)
 とは言え人間なんざアホである。いくらナンシー関的なツッコミを社会が強要しても、人は誰かを好きになったり恋に思い悩んだりすることはやめられない。誰しも心にマイリトルラバーを抱えているのだ。(マイリトルラバーやナンシー関を知らない若い人もしくは老いた人は「マイリトルラバー」の部分に「SEKAI NO OWARI」か「オフ・コース」を、「ナンシー関」の部分に「地獄のミサワ」か「山藤章二」を代入してください。地獄のミサワと山藤章二は全然似てないけど、論旨はそこじゃないので)
 だが穂村弘登場以前は「ラヴソングを書く人」と「ナンシー関的なツッコミを入れる人」は交わらない全く別の人だったように思う。「ラヴソングを書く人」はツッコミをいれないし、「ツッコミを入れる人」はラヴソングを書かなかった。少なくとも私の認識では。
 では心の中のマイリトルラバーと社会が要求するナンシー関との齟齬を人々はどうやって埋めたのだろう?
それに対しての対処法としてはA.心のマイリトルラバーをなかったことにする。恋愛の話をそもそもしないとか、徹底してマイラバーを避ける。B.普段は全く恋愛について話さないが、恋愛の話になると急に口ごもり恥ずかしげに話すという2パターンが考えられる。B.に関しては一部の芸人がよくやっていた。シャープなツッコミで一定の評価を得ている芸人が恋愛のはなしになると口ごもり、途端に口下手になる。その普段のシャープなツッコミとのギャップが笑いにつながる。というもので芸自体が「ラヴソングの恥ずかしさ」を克服したわけではない。芸がある人が芸をやれない瞬間にフォーカスをあてたものだ。無論当人に芸があることは前提なのだが。
 それに対して穂村がやったことは私なりにいえばこういうことなる。
 ナンシー関の突っ込みにも耐えうるラヴソングを書く、ということだ。
 ツッコミの視点を持ちつつ、それでもファンシーでロマンティックな短歌をつくること。
 それが短歌の外にも、今の時代を生きるための全うな営みとして受け入れられたのではないか。
 穂村の表現には、当たり前に二元論に陥らずそこで格闘しようというものがあったのだ。
 では穂村の格闘の成果をいくつか見てみよう。

体温計くわえて窓に額付け「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ
「とりかえしのつかないことがしたいね」と毛糸を玉に巻きつつ笑う
「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」
「人類の恋愛史上かつてないほどダーティーな反則じゃない?」
爪だけの指輪のような七月をねむる天使は挽き肉になれ

(引用歌はすべて穂村弘「ラインマーカーズ」/小学館)

 これらの短歌を読んで考えたのが以下の事である。
・臭いセリフになりそうなところは「」をつけて「別の誰か」が言ったことにする。
・短歌という短い形式を象徴的なワンシーンを提出する「切れ」のメディアとして利用する。故に「うたい」過ぎず、また俳句より文字数が書けるので日常のフラットなワンシーンを描くのに適した文体と言える
・「天使」といったベタなワードは「挽き肉」という生活感と残虐性を伴う単語でバランスを取る
・上記三つの要素は2015年現在ではスタンダードな手法になっている。
・「人類の恋愛史上かつてないほどダーティーな反則じゃない?」は さすがにちょっと気取り過ぎである。「」のレトリックを使ってもなお嫌味ったらしさが残る気がする。が、穂村短歌の随所にみられるのはこう言った攻めの姿勢である。スベらないよう最大の配慮をしつつもどっか「スベってもいいんだ」ぐらいの気持ちがある気がする。ラヴソングに弄ばれるのを楽しんでいるような。気取った言い方をするならば、ラヴソングに恋をするようにラヴソングを書いている。フラットな文体の象徴のように語られる穂村だが、どこかでこんなダイナミックさを出すから侮れない。


 1980年代・当時大学生だった穂村弘は塚本邦雄の短歌を「なんて面白い言葉のパズル」として受容していたそうだが、穂村は「なんて面白い言葉のパズル」としての短歌のエッセンスをラヴソングの臭みを取るものとして上手く機能させている。後に穂村は塚本短歌の「『日本脱出したし』『さらば青春』『かつてかく』に込められた切実感を完全に見落としていた」と気付くことになるのだが、むしろ塚本短歌を「なんて面白い言葉のパズル」と「誤読」したことから穂村の短歌ははじまったのではないだろうか。塚本の前衛短歌的なものと目の前のフラットな現実の板挟みになりながら、歌をつくったことで穂村の文体は生まれたのかもしれない。
 元も子もないことを言ってしまえば、世にあまたあるラヴソングのほとんどは、「なんて面白い言葉のパズル」としての塚本短歌の影響を受けていない。というか塚本邦雄を知らない。故にラヴソング然とした言葉でラヴソングをつくってしまい単調な表現に陥ってしまっているのだ。
 塚本邦雄の「言葉のモノ化をベースとする高度なレトリックによって「戦争」を撃」つことにせよ、穂村弘の「なんて面白い言葉のパズル」としての塚本短歌レトリックで80年代以降を描いて見せることにせよ、時代とのズレや相反するものとの緊張感、二律背反が強烈なものを産むのではないのだろうか?  
 今は穂村弘がアイコン化されるほど穂村弘な時代だ。穂村弘な時代に穂村弘な文体で書くことにどれほどの意味があるのだろう? それは穂村弘がしばらく歌集を出していないこととどれだけ関係があるのだろう?。

 であれば穂村弘以降の歌人たちがすべきことは、穂村文体の踏襲をすることでなく、穂村弘を誤読し、全く違う文体をデッチ上げることではないのだろうか? 穂村が塚本の誤読から今の文体をつくったように。いや、誰も塚本短歌の誤読から穂村短歌が生まれたなんて書いていないのである。これは俺の妄想だ。でも多分そうだと思う。そもそもこの文自体がデッチ上げだ。騙されろよ。

 松本人志を「天才」或いは「天才の衰退」の一言で片づけてしまい、せっかくの彼の実験性をうまく受容できなくなりつつある日本人はもう同じ轍は踏めない。穂村弘という国有財産を「ほむらさんかわいい」「ほむほむいじり」の二元論で片づけるべきではない。
「穂村さんかわいいけど、それだけじゃない、批評も鋭くて、言語感覚も優れてるってことは、私わかってるんですよ」
「穂村弘、短歌うまいけど妙に鼻につくんだよな。キャラ設定とか」
「穂村弘以降、短歌が恥ずかしいものでなくなりつつあり短歌をやる若い人が増えた」
「穂村弘以降、短歌が平板なものになった」
 上のようなよく見かける穂村論をゴールとせずあくまで起点とすること。全肯定と全否定に終始するのではない、それらを前提にした新たな穂村弘観―穂村弘3.0―を構築すること。デッチ上げでもいい。とにかく手あかのついた穂村評から抜け出し、穂村弘な時代に穂村弘でない文体を作り上げること。
 穂村弘の次の一手であるあらたな歌集の出版が待ち望まれているが、それ以前に我々の次の一手である穂村弘観のアップデートこそが求められているのだ。試されているのは穂村ではない、我々だ。
  
 最後に穂村弘が斎藤茂吉を「未来の危険やすばらしさを予知」できなかったが、「この世にたった一度の生を生きることを全身で肯定した」歌人と捉えた上でこれからの短歌について語っている部分を引用して終わろうと思う。穂村弘3.0をインストールすればきっと穂村の言うことがわかるだろう。もし穂村の言うことが、わからなければ誤読したまま新たな文体をデッチ上げてください。

 だから、僕たちがもし次のステップを考えるんであれば、すごく不自然なことなんだけど、死の問題を、何ていえばいいのかわからないのですけど、ただ一度の生を限りなく燃えて生きるという以上のアイデアが必要なんじゃないか、もっといいアイディアがあるぞということを見つけた人間が、時代を切り拓く。
(「明治から遠く離れて」 高橋源一郎・穂村弘の対談より穂村の発言「どうして書くの? 穂村弘対談集・2009年・筑摩書房」所収)

 念のために言っておくが、この文章は穂村弘の実像に迫るとかそういった類のものではない。穂村弘の実像なんてしったこっちゃないし、本名だってしらない。個人的な意見で言えば、わたしは穂村弘を柔道五段の荒くれ者だと思っているので、この文章をもし穂村が読んで誤解されたら、怒り狂った穂村弘に一本背負いを決められるんじゃないかととてもビクビクしている。でもきっとそれは誤解ですう。私もあまりうまくは言えないんですけど、本当はもっと細やかな言いたいことがいっぱいあるんです。

 しかし、妙に素直に言葉を発してしまったな。なんか伝えようとし過ぎて妙にストレートな言葉遣いをしてしまった気がする。そういや言葉を発することについての穂村弘の言葉があった気がするな。


 山崎さんのエッセイは、「一見直球で言葉を投げかけているんだけど、直球のままでは言いたいことのすべてが伝わらないことを知っていて、だから近寄ってみると細かい変化がいっぱいついている」という感じがします。
(「言葉の渦巻きが生む芸術(アート)」山崎ナオコーラ・穂村弘の対談より穂村の発言「どうして書くの? 穂村弘対談集・2009年・筑摩書房」所収)


 じゃああまりに素直なこの文章、きっとだれにも伝わらないね。
ジャンル:
ウェブログ
コメント (1)   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 短歌評 うらじ、みる。と、... | トップ | 短歌時評 第118回 遠野真「... »
最近の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2017-05-08 18:45:26
読みました。

コメントを投稿

短歌時評」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事