「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 短歌を見ました番外編 飯塚距離「潤潤恵」について 鈴木 一平

2017-06-23 13:57:06 | 短歌時評

 「穀物」は部屋中に散らかった本の下敷きになってしまったのか見つからず、次回に持ち越します。短歌時評の締切が近づくたびに「穀物」を探すというイベントを半年ぐらいのペースでやっていたのですが、ついに破綻してしまったので、次回までにはなんらかのかたちで調達できればと思います。

 というわけで、今回は四年ほど書きそびれていたことを書こうと思います。飯塚距離という歌人がいます。感じについては彼のブログ「パンデモーニカはぱんでもヶ丘」に公開されている連作のいくつかを見ていただければわかると思いますが、根底に現代詩の参照を感じる、言葉遊びに傾斜した語の選択が特徴的な作風です。いわゆる言語実験的な側面が強く感じられますが、ここでは彼の代表作である(と個人的におもう)「潤潤恵(うるうるえ)」という連作について考えてみたいとおもいます。掲載媒体は2013年に公開されたネットプリント誌『県南のジャベリン』で、現在は前述のブログ記事から読むことができます。『県南のジャベリン』については、公開当初の「ジンクスと都市伝説のペーパー」という奇妙な触れ込みが印象的だったのを覚えていますが、本連作は短歌と、既存の短歌を組み合わせてつくったジンクスから構成されています。「既存の短歌作品を組み合わせてつくったジンクス」とはどういうものなのか、イメージしにくいと思うので、凡例を引用してみましょう。

たくましい人間から放たれた矢が壁画の牛をまだ貫かないとき、たくさんの星を積んだ馬車が現れる、その馬車は広い額の上を通り過ぎていく(AM県・MYさん)

 紙面では斜体で記述されています。パーレン内の県名・氏名のイニシャルはそれぞれ、引用元となった短歌作品の作者名であり、上記のジンクスは次の作品からつくられていることを現します。個々に独立した作品としてあった二首の短歌が合体させられているわけです。

矢をまさに放たむとして人逞し壁画の牛はいまだも刺されず(雨宮雅子)
おびただしき星のせてゆく馬車のありあまりに広き額の上を(鳴海宥)

 注目すべきは、ジンクスとして組み合わされた二個の作品と、その結果として生み出されたジンクスのあいだの差異が、先行作品に内在する意味の一部をつよく前景化するようにあらわされている点です。一見してわかるように、ジンクスへの転写に伴い、二つの短歌に共通していた文語的な語調が噛み砕かれています。そのなかで、短歌「矢をまさに」の結びである「いまだも刺されず」が、ジンクスでは「まだ貫かないとき」と翻訳され、続く「おびただしき星」へと至る場面提示となっており、作品内に描かれた情景が、続いて引用される作品へと接続されています。つまり、ここで短歌形式と形式内部に組み込まれていた情報とが分離され、そのことによって短歌自体に内在していた意味の要素が短歌そのものの自律性から独立し、別の言語表現に転写可能なものへと改変されているわけなのですが、話はそれだけではありません。ここで行われている事態は単なる短歌の改変以上に複雑で、「作品を読み、それについて何かを知覚する」行為そのものに内在する質を、かなり鋭く提示しているのではないかとおもいます。短歌とジンクスの両者を比較しながら、そこで行われている書き換えの過程を見ていきましょう。
 まず、先に改変されている短歌「矢をまさに」とジンクス「たくましい人間~まだ貫かないとき」から見ていきます。「矢をまさに」で主題となっているのは、狩人が矢をもって牛を射止める瞬間を描いた(おそらく先史時代に制作された)壁画を観る私、つまり放たれた矢が絵のなかで牛に刺さることなく固定されたまま、気の遠くなるような時間を経て鑑賞者の目に出会ったその感慨であるといえます。作中で「私」は明示的に名指されてはいませんが、短歌形式は音数律や語配置の問題から俳句と比べて「事物」よりも「事物を認識する私」についての叙述に有利であり、かつ「私の心情」を詠むよう鍛え上げられてきた歴史を持つため、「この認識を持つ私」を強く要請するジャンルです(歴史的過程についてもうすこしいえば、「私性」の前提が作品のなかに位置づけられるべき「ある事物を認識する私」を慣習的に出現させてしまうのかもしれませんが)。前者については「57577」における「575」「77」の対が含む「57」「57」や「7」「7」の反復が、抽象的な次元で「事物+事物に対する言及」の構造をつくりやすく、翻って「言及」部分に「事物に対する私」を要請させるのではないかという話を本連載のどこかでしたとおもいます。話が迂回しましたが、「いまだも刺されず」と締めくくられる「矢をまさに」では、壁画の鑑賞体験の内側で行われた私の認識について触れているという側面が強く打ち出されているわけです。
 さて、短歌「矢をまさに」に対して、「潤潤恵」におけるジンクスはどのような語配置が行われているのでしょうか。「矢をまさに」に対応する配置の末尾である「まだ貫かないとき」に注目してみたいとおもいます。当たり前の話になりますが、短歌「矢をまさに」における「いまだも刺されず」は作品の末尾に配置され、これを以て作品が終了していますが、「まだ貫かないとき」は後半の「たくさんの星を積んだ馬車が」と接続しています。言い換えれば、「貫かない」でいる時制に額の上を通り過ぎていく「馬車」の過程が挟み込まれているわけなのですが、その結果として「いまだも刺されず」が含み持つ「私」への回帰が弱められ、「壁画」のなかで完結していた描写が壁画の外(つまり、「馬車」が位置づけられる空間)へと漏れだし、「たくましい人間」と「」がその流れに乗るかたちで、壁画の外にいる(矢を実際に「壁画の牛」に向けて放っている)かのような実在性を獲得しています。なぜかというと、「いまだも刺されず」として表現される時間は、「矢をまさに」においては壁画そのものというよりも壁画を見る私の認識に結びつけられており、壁画自体やそれを取り巻く外部の対象に干渉するものではありませんでしたが、ここで「いまだも刺されず」から「まだ貫かないとき」へと改変が行われることによって、描かれた空間内部において具体的に働く因果関係が立ち上げられ、私の個人的な感慨から現下の状況に対する叙述としてその位相が繰り上げられているからではないかとおもいます。つまり、「貫かない」でいる時間は「壁画」に描かれた瞬間ではなく現時点で進行中の過程を示す符帳として働き、「たくましい人間」の手から放たれた「矢」が、「壁画の牛」に向かって文字通り伸びていくという認識が成立するわけです。

 さて、「まだ貫かないとき」に続く「馬車」を巡る記述についても、ジンクス化にあたって元の作品で詠み込まれたイメージをどのように組み替えているのか見ていきたいと思います。元の「おびただしき星のせてゆく馬車のありあまりに広き額の上を」は、「馬車のあり」が作品の中心に配置され、前後の語は絶えず自身から「馬車」へと向かう意味の方向を背負わされているため、ひとまず「星をのせていく馬車」の解釈に読みが集中するような構成がとられています。「のせていく」という行為の進行を示す修飾が「あり」で言い留められることで、「馬車」は他の語の運動を抱え込み、翻って「」と「馬車」の関係への注目から、満天の星空の下を走る馬車のイメージが際立って知覚されます。しかし、ここで後半の「あまりに広き額の上を」をどのように読むべきなのかが問題になります。配置を変えて、「あまりに広き額の上をおびただしき星のせてゆく馬車のあり」と読めば、「」は「馬車」にかかり、「額の上に馬車がある」というイメージがあらわれます。文法的には適当な読みかもしれませんが、「馬車」にかかる修飾が重たく、倒置で表現された理由がわかります。とはいえ、「あまりにも」は「」にかかるものでもあるという可能性も捨て切れません。文法上のつながりはどうあれ、私たちは順序や文法事項に沿って必ずしも短歌をつくり、読む必要はなく、互いに切断された作品の上部・下部は並列的に処理できます(これについてはまたあとで触れます)。つまり、たとえ「」が「馬車」にのせられていく過程によって「額の上」と(文法的に)関わりうる位置を奪われていたとしても、額の上に星があるという構図を潜在的に読みうる配置があるわけです。しかし、ここは範囲を絞って、「」は「馬車」にかかるものとして読んでみたいとおもいます。
 「額の上に馬車がある」という表現は、頭部にある額を字義通にあらわすものなのでしょうか。「あまりに広き額」は、広々とした砂漠や丘のような場所を指し示しているのかもしれません。「」は文字通りの「」をあらわしている、と見ることももちろんできます。場所は高台かなにか、視点の上部にいて、視点はその馬車を下から見上げている、馬車の背景にはたくさんの星がまたたいており、その光景が「星をのせていく」と形容されているのだと、字義通りの読みでは解釈できそうです。もっといえば、視点人物がそれをどこから見ているかの補足としてではなく、実際に「馬車」が「」の上に置かれていると考えることもできます(「あまりに広き」が、馬車が乗るほどの額の広さをあらわしている、という視点です)。「馬車」と「」の関係はそれぞれの具体的なサイズや位置を欠いたままで置かれているため、一義的な解決はむずかしそうです。
 ジンクスの該当個所に進んでみます。元の短歌に対して「現れ、通り過ぎていく」流れに焦点が置かれ、音数律による場面のピックアップも取り除かれていることで、もとの短歌で打ち出されていた前半部のイメージが弱められているように感じます。代わりに、ジンクスは短歌がその下部に示していた「」の倒置を打ち消し、文の進行に沿って配置し直すことで、短歌において見られた「」の位置のゆらぎを正し、馬車が額の上に存在していることをいくぶんかクリアに提示し、かつ、「」の指し示す意味の限定を避けていることがわかります。しかし、語りと「馬車」との位置関係はついに定められず、ジンクスのあとに「」と「おでこ」を詠んだ作品(「星へのおしぼりはおでこへの星のとっこうやく 笑った 森で動けるうちに」)が置かれていることから、制作者は「」を字義通りに読み、おそらく「額の上」を馬車の通り過ぎていく地面として使用しているのではないかと考えられます(「広い」の修辞についてもおそらく、馬車がその上を通り過ぎるに足る広さを額が持つものとして使用されています)。ジンクスは短歌の不鮮明な多義性を、選び取られた解釈を通して組織化しているかのようです。
 また、ここではジンクスとして短歌を散文へと転写するにあたって、短歌形式の持っていた機能が削ぎ落とされています。短歌に限らず、定型詩は参照項となる定型との距離感に基づいて語を配置することで、その内部に単なる分節には回収できない抽象的な形式を宿らせます。くり返しになりますが、「57577」のリズムは文法に基づいた語配置と同等かそれ以上の力を持った規範として短歌作品の組織化に貢献するため、私たちは全体としては意味の通らない短歌を読む際にも、詩を読む際のそれよりはいくぶんか経済的に鑑賞体験を遂行することができます。「あまりに広き額の上を」が倒置として成立するのも、「57577」がもつリズムにおいて「575」と「77」を文構造ではなく短歌形式において関係づけることで可能になるものではないかとおもいます。この関係を通して、「おびたたしき星」は「あまりに広き額の上を」が私たちの目を上部の「おびたたしき星のせていく馬車のあり」に回帰させるよう働きます。一方でジンクスはそうした短歌形式のもつ身体を取り除き、回帰の方向を欠いた一続きに展開する読みの順序を採用しており、それに呼応するように短歌では「のあり」として「額の上」に置かれた馬車が、(「まだ貫かないとき」の契機と連携して)「現れる/通り過ぎていく」という出現と移動を指示する語によって「額の上」と関わります。しかし、短歌が「走り抜ける馬車」のイメージをまったく持たないかといえばそうではなく、むしろジンクスにおける「現れる/通り過ぎていく」の使用は、前述したように短歌で用いられた「」に対する修飾「のせていく」が「のあり」に付帯させていた移動のニュアンスを抽出し、強調することが意図されているのではないかと考えられます(と同時に、ジンクスでは「のせていく」が移動の痕跡を消去した語「積んだ」に置き換えられています)。つまり、ジンクスは自身を構成する散文形式と関係するにあたって、一方向的な読みの運動を短歌とは異なる機能として意識的に利用し、それを通して短歌作品が持っていた意味の一部をより強く押し出しているのです。

 さて、以上のようにジンクスは二つの短歌を組み合わせ、一つの文として自身を成立させるに当たって、単なる言い換えに止まらない操作を行っています。そして、それらはまったく恣意的な改変ではなく、短歌作品に内在していた意味の一部の抽出と拡張が目指されています。「矢をまさに放たむとして人逞し壁画の牛はいまだも刺されず」は、実在する人間の手から壁画に描かれた牛めがけて矢が放たれた、その瞬間について詠まれた作品であるという認識は、よくよく「矢をまさに」を読み返してみると、なるほどそのように感じられますし、むしろジンクスにおいて提示されたものこそ正しい読みなのではないかとさえおもえます。両者を比較し読んでいた執筆者(鈴木)が穏当な読みをしているという可能性は否定できません(実際のところ、執筆者はジンクスと短歌作品の比較のなかで「私の読み」を立ち上げましたが、そこでジンクスにおける記述と短歌における記述のありようの差異に驚いたのが本論の執筆のきっかけでした)。こうした「読み」の多義性を作品がはらむこと、かつそうした読みの多義性について、制作者である飯塚距離が十分に意識的であることについては指摘しておく必要があります。ブログ記事「ヴァールハイト精神城での一夜が誰かに過ぎて」で、飯塚はたとえば斎藤茂吉の歌にある「命をはれり」が「終われり」と「を張れり」の二通りに読みうることについて、次のように述べています。

 ああ、そばに「命死にゐる」の一首があるのだし、この「命をはれり」も「命終はれり」を平仮名に開いたのだな、と隣の歌を梃子にすることで河豚の命終を換算することをぎりぎりのところで許さないのは、「命をはれり」が「命を張れり」も引いて、つまり生き死にの水準から睨みをきかせてくる言葉がここで明滅を繰り返してあるからではなかっただろうか。
 見えない者たちの総意に「あかあかと一本の道」のように収斂していくまで、そしてそれが総意だともはや感じられなくなるまで眼が一首に文意を釘づけしようとするとき、表記の曖昧さや文法の不可解さといった小さな寸鉄が、その場を性急にひとつの喪へと締めくくることに抵抗をしようとするなら、たとえばこのような局面でどうして立ち止まらずにいられるだろう。

 斎藤茂吉の短歌「潮の上に怺へかねたる河豚の子は眼をあきて命をはれり」の「命をはれり」が、その近傍に位置する別の短歌「ひたぶるに河豚はふくれて水のうへありのままなる命死にゐる」の影響を受けつつ「命終われり」と読めてしまえる一方で、「命を張れり」を同時にあらわしうる。つまり、そこには「終われり」と「を張れり」という異なる読みが同居していることになります(余談になりますが、本論の執筆中、執筆者はたとえば「いまだも刺されず」を何度も「いまだ」「刺さらず」と読み違え、「まだ貫かないとき」を「いまだ」「貫かないでいるとき」と読み違えてしまったのですが(いまもいくつかを間違えているかもしれません)、こうした読み間違いがありえるということは、ここで述べられている多義性の次元は言語システムが孕む問題である以上に、テクストを読むことが単なる言語規則に基づく伝達過程にとどまらない次元、私とテクストのあいだを構成する非言語的な次元を如実に示すものであるように感じます)。飯塚はこれを単なる多義的解釈の称揚としてではなく、奇妙な迷いを巡らせながら、一方で次のように述べています。

 ひとつの読み方に固執しなければいけないというのではないし、複数の読み方の間で逡巡することは「どうとでも読める」という居直りなどとはやはりべつの歩みをもたらしてくれるだろう。だからそうではなくて、たとえばそれは無感覚に陥りそうな読みの時間の中で、もしひとつの誘いの声を言葉から聞き取れることがあったら、それに顔を向けてみることから始めたい、そんなたしかに頼りない気持ちに根差したものだったけれど。

 ここで飯塚は語配置の多義性そのものよりも、語配置が多義性を私たちに向けて発現させる(一義的に読んでいたはずの語配置に、べつの読みの可能性があることを私たちが知覚してしまう)その瞬間に注目し、そこから立ち上げられる作品の読みや制作を志向していると読めます。翻って「潤潤恵」におけるジンクスを、短歌作品がもたらす私の読みを極度に圧縮された記述として組織化し、短歌を通して与えられた私の読みを、私以外の他者(私が捉えた読みを知覚できなかった私)に向けて開示する試みであると考えることができるのではないでしょうか。
 最後になりますが、ジンクスは単なる先行作品への批評的意義だけではなく、まずもってそれ自体がひとつの制作行為であると同時に、自身の制作を根拠づける環境として「潤潤恵」に埋め込まれています。ジンクス「たくましい人間から……」の周囲に配置された短歌のいくつかを引用してみましょう。

お腹かなと思えばぬーっともしたくてお腹鳴るような農道をくだる

また心のないがいかよ うちそとあやす動物病院は太陽のちょっと下よ

星へのおしぼりはおでこの星へのとっこうやく 笑った 森で動けるうちに 

 これらの作品は、提示されたジンクスで展開された運動をもとに組み立てられた作品か、すくなくともジンクスを地に読みうる構造を持った作品です。たとえば、「お腹かな」では、「くだる」ものが具体的に何かが指し示されておりませんが、身体の上部に置かれる頭の部分である「」に対して、その下部に位置付けられる下半身の途中にある「お腹」が主題に置かれ、かつジンクス「額の上」を対角線上に据えるように「お腹」と「くだる」が使用されています。それにより、「お腹をくだす」からの発想や音韻的類似による豊かな音楽のただなかに農道をくだっていく「馬車」の存在が現れます。また、「また心のないがいかよ」は短歌とジンクスの往復によって生み出された「壁画」の「うちそと=内外」意識させつつ、壁画の内側に置かれていた「牛」がついに矢に貫かれ、「動物病院」を通して「壁画」の外に呼び出されるという物語が想起されます。そして、先ほど「」の意味を巡って引用した「星へのおしぼり」は、「」と「」の関係をマンガ的なイメージ(頭をぶつけて星が出る)のもとにあらためて読み換えたものとして、短歌「おびたたしき星」で置かれた「あまりに広き額の上を」の唐突さを補っています。
 これらの短歌を、ジンクスによって抽出された意味を土台にした制作行為として位置づける視点は有意義であるとおもいます。私において読まれた短歌の語配置(ある言葉の使用法)をもとに、言葉を配置しなおし、それを通して新たな作品を制作すること。それは私において読まれた短歌の「誘いの声」を聞き取り、そこで担われた言葉の意味をさらに新たな認識へと拡張させていくための、ひいては他者の思考を私が思考し、さらなる他者の思考へと私たちの思考を受け渡す技術としての言葉を思考するための、ひとつの具体的な方法であるといえるのかもしれません。

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