「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌相互評③ 阿波野巧也から安田百合絵の「禱るひと」へ

2017-06-03 03:06:49 | 短歌相互評

 

作品  安田百合絵「禱るひと」 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-05-06-18426.html

評者 阿波野巧也

 

 

 安田百合絵の「禱るひと」を読んでいく。一読して、叶いそうにない恋慕を題材とした連作だとわかる。

胸ふかく咲き満ちてゐる春愁をそよがせて午後の樹下を歩めり

 「胸ふかく咲き満ちてゐる」まで読んで、華やかでハッピーなものが次にくるのかなと期待したところに、「春愁」で裏切られる。春愁、つまり春におけるもの悲しさが胸の中ふかくを咲いていて、それも満ちている。さらに、それをそよがせている。のっぴきならないわびしさや悲しさのような気持ちに溢れているんだけれども、それはまた花が心の中にそよいでいるような感覚でもあるのだ。勿論、「そよがせている」わけだから、この人のなかで、春愁をそう思おうとする若干の強がりもあって、「午後の樹下を歩めり」みたいな引きめの把握へと移行していくのかもしれない。連作全体の、「ゆるされぬ恋」感への導入としてふさわしい一首。

いはばしり激つ恋慕にあらざれど春の潮(うしほ)のごとき逢ひたさ

 一首目の「春愁」もそうだけれど、「恋慕」「逢ひたさ」というような心の中の動きや状態に、実際の花や、川・海の情景を重ねて描写している。この歌の場合、大きく、ゆっくり満ち引きしていくような潮によって会いたい気持ちを描写しているのが的確だ。加速度は小さいけれど質量がずっしりあって、会いたさの力の大きさが伝わってくる。

くきやかに骨のかたちを見せながら息吸ふときに喉は隆起す

 会っているときには〈逢いたさ〉は抑制されて、対象の描写に注力がなされる。喉仏の描写。実際的な認識の流れは、呼吸時の喉仏の動きを見る→「くきやかに骨のかたちを見せ」ていることに気づく、というものだとおもうが、このような語順で提示することによって、「息吸ふときに喉は隆起す」のという普遍的な事象が、〈いま・ここ〉でその人の骨のかたちが見せられている、という一回性へと転換する。

水面(みなも)から飛花が水底へとしづむ神のまばたきほどの時の間

 上の句の母音構成は〈iaoaa/iaaiaoo/eoiuu〉である。「みな」「ひか」「みな」という押韻だけでなく、二句目までをa,i,oの母音だけで進めてきたところに「へとしづむ」という句またがり、かつ、母音構成が転調している三句目が入ってくるところに、この歌のリズム的な屈折点がある。(歌全体を見てもeの母音が出てくるのは三句目の頭だけである。たぶん、偶然なのだろうけど。)「神」「まばたき」「時」と、下の句以降ではiの母音が尻にくる名詞が並んでおり、そのあたりも上の句と対照的。歌の内容がシンプルな分、リズムに目が行く。

情念は黙(もだ)ふかくあり十四年耐えてラケルを娶りしヤコブ

読みゆけば心はつひに愛さるるなくて嫉妬(しふ)ねきレアに寄りゆく

 旧約聖書を読んでいるようだ。「心はつひに愛さるるなくて」まで読んで熱量の高さにぎょっとしながら、最後まで読んで、「心は……レアに寄りゆく」という主述関係なのだと気づかされる。でも、「(私の)心はついに(その人に)愛されることはなくて」というような文脈も読める感じがあり、〈私〉の愛されない心と、「レア」の愛されない心が一致していく、というようなイメージが浮かんでくる。

祈るとき瞑(めつむ)るひとのなぞへなく淋しきさまを幾たび見つる

 「なぞへ」とは「準へ」や「擬へ」と書き、なぞらえること・比べることといった意味のようだ。比べることなしに淋しいさま、すなわち、絶対的な淋しさというものを祈る時に必ず見せるような「ひと」なのだろう。〈私〉と「瞑るひと」が幾度か祈りの場面を共にしたという親密さを表している一方で、その「淋しさ」はどこまでも〈私〉にとってのそのひとへのわかりえなさ・知りえなさへと繋がってくるのである。

Henri Martin, Jeune fille près d, un bassin (Girl by a fountain)

魂は水の浅きをなづさへりうつし身ゆゑにゆけざるところ

 詞書にあるHenri Martin(アンリ・マルタン)はフランスの画家だそうだ。「なづさふ」は水にもまれている、というような意味。この絵(英題はGirl by a fountainだから、「噴水(泉)のそばの少女」とでも訳せばいいのだろうか)では、少女が泉のような、枯れた噴水のような、円形の池を覗き込んでいる。この前の歌では、入水自殺を遂げたヴァージニア・ウルフが詠みこまれているから、それを受けての歌だろう。この「魂」をウルフのものと取って、〈私〉のうつし身はそちらへ行けない、と解釈するのか、はたまた、「水の浅き」が詞書で示された絵の中の水だから、うつし身の〈私〉はそちらへいけない、と解釈するのか。あるいはその両方か。解釈は確定不可能だが、個人的には〈私〉みずからの魂が身体と分離して、絵の中の水の浅い部分を漂っている、というような読みをしたい。

逢ふたびにこころを毀(こぼ)ち合ふほかはなくて今年の春を逝かしむ

 連作最後の歌。あまり「こころを毀ち合」ってる感が想像できないのだけれど、会いたいけど会うとしんどい、みたいな感じなのだろう。連作全体で、一人称も二人称も出てこないが濃厚な相聞の雰囲気があり、表現の力を感じた一連だった。

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