「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 短歌を見ました 鈴木 一平

2017-12-22 03:29:49 | 短歌時評

 長々と『穀物』を読みつづけてきましたが、山階基「まどろみに旗を」で最後です。

  先にいるらしいあなたは見つからず春の終わりにかかとを乗せる

  待ちわびた姿だけれど目の前にあらわれるまで思い出せない

  いつかとのまちがい探しに挑むよう歩調のゆれるあなたと行けば

 「歌」は記憶の定着を促すために節をつけられ、世代を渡って引き継がれていくことで共同性を維持させる技術ですが、冒頭の三首では忘れること、記憶を辿り直すことが歩行において見いだされ、そこに探りを入れるような手つき詠まれています。同時に「かかとを乗せる」「目の前にあらわられるまで」「ゆれる」と、かすかな感触を通した寄る辺のなさが作品構成の基調になっているようです。たしかなものとして知覚できず、「このなかのだれも風力発電の羽根にさわったことはないのに」で詠まれるような遠く、ぼんやりとしたかたちで与えられる寄る辺のなさは、参照可能な事実には還元できない(物体がそこにあること、物体のなかに埋め込まれたものとして受容できない)感覚として、後続する作品に譲り渡されていきます。特筆すべきは「ねむり」です。

  ねむるとは取り戻すこと目覚めたら抱えたものが花かもしれず

  ねむたさが髪をしたたる浴槽に目盛りのような乳首は浮いて

  より深くねむるあなたの岸にいて小さな旗に凭れるばかり

 「眠」りではなく「ねむ」りで統一されるこの語は、忘却と近しい気づきのテンションを持ちつつ、鈍く私を浸すイメージの類縁性として水を導きます。こうして水は「」、「」は「夕凪はほどけてふたりはためいた汽水の岸に着いてしばらく」と関わりつつも

  満ちていく水のすがたに鎖骨まで引きあげてから脱ぐカットソー

 に見られる通り、「抱える」「乳首」と胸元に当てられる焦点を維持しながら、せり上がる水の知覚をいや増していく睡魔へと返していくかのようです(この流れは「水を恐れ水に寄り添う人びとよ護岸はやがて海へと至る」でピークに達しつつ、「あたためるその火加減をしくじってテーブルに吹きこぼす言いぐさ」へと、生活のなかに溶け込む影をただよわせています)。また、水は夏に接続しているようで、「それぞれが正気に戻る瞬間よ蚊は遠ざかりわたしは椅子へ」といった官能や「予報にはなかった小雨くたびれたタオルはしぼることもできない」「大瓶をたすけ起こせばひと夏を切れっぱなしの賞味期限だ」といった諦念へと結実します(「あらわれてただ抱きとめるだけになる夏のスクランブルのほとりに」は、後述の「抱く」へと続きます)。こうしたゆるやかな感覚のグラデーションを通じて変奏をくり返す進行は、水が引き連れる換喩を起点とした「」から、歌が歌として自己を保つところの根元である伝達への賭け、つまり「あなた」と呼ばれる彼岸、「わたし」のいる此岸へと、なめらかに展開させています。それは「暮れがたにひとりひとつの雨傘はちいさな檻の天井となる」(これは「ぼろぼろの傘にたやすく化けるからあなたはそれを見て笑うから」と、雨を通して檻の向こうへとお互いに浸潤していく予感をにおわせますが)「ぜっぺきの頭をすっと撫でられて海へこぼれる石のさびしさ」「ないような夜と海とのあわいからちぎれる波に洗われていた」といった孤絶のニュアンスへとつながりつつも、感覚の淡さによって裏打ちされるちいさな愛を「あなた」への眼差しににじませます。「ほんとうに求めて来たのならわかるあなたに似合う楯をいちまい」のように、ささやかな感触があって魅力的です。

  客だから言える怒りを享ける背は雪にたわんでいく枝のよう

  顔をあげお辞儀の沼を抜けてくるあなたの泥によごれてもいい

  ごめんねとあなたが口にするたびに賽銭箱のように鳴る胸

(これは、「食べかけた森永ミルクキャラメルの箱を鳴らして合いの手にする」へと「鳴る」の反復を以て続いています)

   これらはせり上がり、積み重ねられるものを引き連れていますが

   ラーメンがきたとき指はしていないネクタイをゆるめようとしたね

(「ネクタイをゆるめる」は「よるべなく重ねる暮らしこの窓の明かりをしぼり夜景は弱る」、前述の「満ちていく水のすがた~」と並ぶことで官能的な感触をつくっています)

   働いているときのあなたの笑みがまた手品の花のようにこぼれる

(これは「客だから言える怒り」と関わっているのではないかとおもいます。余談ですが、「客だから」の次に置かれた「顔をあげ」は、後述する「」、「」のイメージ、さらに「泥によごれ」ることがもたらす官能が重ねられます)

 一方でこちらは、「胸元」と「」を召喚し直しています。また、水は一方で「砂浜」とも関係し、「さわれない種火が胸の砂浜に置かれて揺らめいてそれからの」や「砂浜にあなたの声の篝火をわたしは絶やさないように唄う」が歌われ、「」は「夢の火に染められた眼鏡をみがく裸眼を向かい風にあずけて」から向こう「」へと送り返されていきます(この作品は「バスに乗るために走っているように見えただろうかバス停からは」の後に続いて、とてもシーケシャンルな流れを生み出しています)。

 さて、ここから

   真夜中のあなたが連れてきた猫に生きてほしいと名前をつける

 と、再び「ねむり」へと戻ります。語感は「」を連作のなかに持ち込んでいるようにも考えられます。そして猫は、その生涯の多くを眠りに費やす存在として、「眠り」を「死」へと移行させるための蝶番にもなっており、かつ、ここで猫は生きのびることへの願いとして、名前をつけられる。しかしこの行為はまったく正反対の、悲しみに満ちた事態を招いてもいます。名づけは、それをわたしの生の内側で特殊な位置を占めるよう(生きるものとなるよう)呼び寄せるものでありながら、固有名を持った現れとなることで、代替不可能なものとしての「死」を避けがたく引き連れてしまう。つまり、名前をつけることで、存在は単なる「もの」から「死にうるもの」へと変わります。そのため、私たちは

  ひたひたの心はゆるむゆっくりと引いたドアから抜けて行く猫

 

 そして「抱きあう胸のあいだひとすじに抜け落ちていく感じがこわい」を意識して読む

  門の字をくずして書いた格好にふたりの腕とねむった猫よ

から、どうしても存在が水のようにゆるみ、くずれてれていく運動、眠りが緩慢な死へと向かうようすを見いださざるをえないです(「抱きあう胸」で感じるこわさは次の「あるいは理由なんてないのか鉄橋にすごい速さで追いあうすずめ」で、不確かなものとして強調されています)。「ひたひたの」「抱きあう胸」は「顔をあげお辞儀の沼を抜けてくるあなたの泥によごれてもいい」「抜けきれるはずだったのに遮断機にはたき落とされてしまう帽子」と、反復される「」から関連づけることもまた可能かもしれず、同じ語がくりかえし用いられる構成の配慮は、網の目のように連作を緊密化させながら、絶え間ない回付のループをつくりだし、深読みへの欲望をかき立てます。そしてこれらの作品群が

   そのたびに忘れてしまう髪切ってはじめて洗うときの軽さを

と冒頭に関係しつつ閉じられることで、すべてがゆるいつながりを持って書かれているという確信を強めてくれます。

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