「詩客」今月の自由詩

毎月実行委員が担当し、その月に刊行された詩誌から1篇の自由詩を紹介します。

第7回 福田拓也の「鏡山まで」 野村 喜和夫

2017-12-07 11:36:39 | 日記
 「hotel第2章」41号に載っている福田拓也の「鏡山まで」が面白い。というか、唖然としてしまった。内容よりなにより、その表記の姿に。冒頭、

  トイレのなかで
  深夜ひそかに自涜しながら

 とここまでは何の変哲もないが、3行目からは、

  慕苦は唖奈他の歯手まで
  うろつく許等を亜木裸滅他


 とこんな感じで、原文にはルビが振られている、そのルビを取り払って引用した。なんだこれは、万葉仮名風ではないか。ルビを復元して読めば、「ぼくはあなたのはてまで/うろつくことをあきらめた」となる。以下同様、万葉仮名風をちりばめた詩行が四十数行にわたってつづく。
 言葉の運びそれ自体はいつもの福田作品に比べて、それほど錯綜していない。雑誌の特集「怪異」に合わせたものか、作中主体「慕苦ぼく」が「火等玉ひとだま」となって「洗裸他あらたなママをサ蛾死がし」さまよい出るという内容が、ほぼ一筋に語られる。というわけで、この作品でもっとも「怪異」なのは、何あろう、表記の姿そのものということにもなろうか。
 万葉仮名風表記は吉増剛造のテクストに散見されることがあり、私も『デジャヴュ街道』において、「あわい」を「亜環井」と書くとか、おずおずと若干試みているが、これほどの組織的な運用は、現代詩において稀有の、いや初めての光景であるような気がする。
 そして思い当たったのである、ついこのあいだ、福田氏は『「日本」の起源』という評論を刊行したばかりではないか。それはほんとうに驚倒すべき本で、ついにラカン──あとがきで氏は「様々な読書の痕跡」にデリダを挙げているが、ラカンも入っていると思う──を援用して日本の起源を論じる者があらわれたかと、私などは実に感慨深く、とりわけ、この評論のキモである「鏡像の誤認」というラカン的シーンを挟んで、ヒルメ(=原アマテラス)とは現実界の謂いでもあったのであろうと、想像をたくましくしたのである。じっさい、この詩篇にも「鏡像の誤認」は及んでいるかのようであり、「あるいは鏡山/割れた鏡の破片」が「空に木裸目久きらめく」ばかりなのだ。
 それはともかく、『「日本」の起源』に展開される、訓読や万葉仮名をめぐる福田氏の日本語論も実に刺激的で、万葉仮名へと結果する「漢語と倭語の二重の消滅」に氏は「原─日本語」をみているが、実作者としての経験からすると、その決定的な瞬間、その「起源的な暴力」を、真の生産的な暴力に脱構築することにこそ、日本語で書く詩人の究極の夢があるのではないかとも思う、いや、都母於毛布ともおもふ。いまその夢に向かって、福田拓也は走り始めたのではないか。たとえば「もの思う」は、この詩篇において「母能於毛布」と書き換えられ、それをさらに漢文訓み下しのように「毛布に於いて母の能力を思う」と読み換えられて、かくて「もの思う」ののっぺらぼうからきりもなく音と意味は拡大し多重化してゆく、というふうに。けだし、詩人とは、理論と実践とをエクリチュールにおいてひとつに結び合わせることのできる者の謂いである。
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