「詩客」今月の自由詩

毎月実行委員が担当し、その月に刊行された詩誌から1篇の自由詩を紹介します。

第17回 仲田有里「鍋」 ― カニエ・ナハ

2018-10-20 00:09:18 | 日記
 ある詩だったり、写真でも絵でもなんでもよいのだけど、読んでから、見てから、2、3日経って、ふいに、あれはいったいなんだったんだろうと、たとえば深夜に台所で洗い物したりしてるときに、ふいに思い出したりする、そういう詩だったり、写真だったり絵だったりがたまにあって、「妃」第20号に載ってた、仲田有里さんの詩に、そういうたまの惹かれかたにて惹かれる。「マニキュア」と題された、連作でしょうか、「鍋」「マニキュア」「松」「男性」という短い四篇の詩が載っていて、冒頭に置かれた「鍋」という詩篇を見てみます。


 大きい鍋にくんだ水
 地面に流れるが、

 何もかもが途中

 そして、
 公園の木々と石
 街灯が輝いているのは
 水のせい

 空は、濃い青
 向こうから自転車に
 乗った人々がやってくる



 これで「鍋」は全篇。途中「何もかもが途中」という行があるけれど、この詩を読み終えたとき、まさに途中で投げ出されたような、なんとも宙ぶらりんなきもちになる。宙ぶらりんのまま、もう一度読んでみたけれど、やっぱりよくわからない。よくわからないのだけど、なんか、とても、気になる。気になったまま、宙ぶらりんにされてしまった。
 この詩が気になってる、宙ぶらりんのあたまで、仲田さんが昨年出された歌集『マヨネーズ』(思潮社)をあらためてパラパラめくっていると、


 一日のすきまにゆっくり息を吐く 鍵を探して階段上る

 この街でつまらないのが丁度いい 朝方しめったベンチに座る

 少ししか洗わなかったベランダに干したら干せる場所が余った



 といった歌たちに目がとまる。すきまとか、つまらなさとか、余った場所とか。わたしたちの日常にある宙ぶらりんの時間や空間をすくいとった歌たちに、はっとする。そして、ほっとする。
 かんがえたら、わたしたちは、どの時間どの場所に居ても、いつも何もかもが途中、なのかもしれなかった。
 水がでてくる歌もいくつもある。水というものも、まさに、いつも途中だ。歌集のわりに最初のほうにでてくる、


 カーテンの隙間に見える雨が降る夜の手すりが水に濡れてる


 にとりわけ惹かれる。雨は手すりにて水になり、手すりをすべり落ちていき、やがてふたたび宙ぶらりんになる。
 自転車が出てくる歌もいくつもある。


 どの町もあの町もただ自転車で通り過ぎることができるそれだけ


 自転車というのはなんとも宙ぶらりんな乗り物なのだなあ、とおもう。
 そしてそんなことをボンヤリとおもうわたしもまた、宙ぶらりんな存在なのだなあ、と。

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