「詩客」今月の自由詩

毎月実行委員が担当し、その月に刊行された詩誌から1篇の自由詩を紹介します。

第15回 過不足なき断片―寺島進「灯台へ」― 亜久津 歩

2018-08-13 12:08:40 | 日記
 暑い暑い夏休み。息子たちという嵐にきりきり舞いの日々である。外の空気にふれたくてSNSやTVを覗く度、憤りとやり切れなさに押し流されそうになる。耳を傾けるべき声があり、起こすべき行動がある。けれど、ただひたすらに、静かなところへ「下りてい」きたい夜もある。ちょうどこんなふうに、固有名詞の剥がれた、抽象的な、内的な、どこでもない場所へ。

  灯台へ

  高原の見慣れない花々に続いて 海の方へ下りていく
  険しい崖のつづら折りの道の辺りにも 見慣れない花々が咲いている
  海の
  青は深い・・という意味においてのみ青 である青
  を見るために 灯台の方へ下りていく

  灯台には詩人が一人棲んでいるらしい が 誰もいないにひとしい


 「断片としての その3」寺島進。詩と批評「アルケー」第18号(アルケーポエム本舗・中原秀雪発行)所収。
 ※「深い」に傍点あり。

 実際には縦書きの作品なので、「"高"原」から「"下"りていく」という言葉の配置が心地よい。手を引くように、読み手の目を連れ立ってくれる。一行に三度現れる「」の畳み掛けも、重層的な「」まりを感じさせる。「高原の花々」と、「下りていく」先の「」い「」との対比もあざやかだ。

 高原に咲く花というと、明るい緑を背にした白や黄色の小花を疎いわたしは浮かべるが、さらに「見慣れない」とあっては、詳細はお手上げだ。だがいい、「見慣れない花々」を見たい。見慣れた何かに胸をふるわせ続けるのは、とても難しいから。

 ジグザグと折れ曲がった道の傍らにも、やはり「見慣れない花々が咲いている」。こんなにも花があふれているのに、同じ花もあるだろうに、主体はまだ「見慣れない」。

 ふと、立ち止まる。

 考えてみれば、見知らぬ、ではなく「見慣れない花々」なのだ。見知らぬと言うには明確に、知っている花とそうでない花がなければならないが、主体にとってそれらは些末なことなのかもしれない。

 そう思うと、「見慣れない花々」に関する記述がないのも頷ける。色や香りや佇まいなどの情報も、見たときの感覚や感情の説明もない。主体は、高いところに咲く花々を、ましてや花のひとつひとつなど見てはいない。深い青を見るために、下りていくのだ。

 名のない高原が崖が道があり、名のない灯台へ海へ向かい、下りていく。名詞の羅列や写実的で繊細な描写、伝わりやすい抒情、いずれも魅力はあるが、ここでは蛇足だろう。この口数の少なさが好ましい。圧縮というより、削られ絞られた、純度の高い言葉だと思う。

 「青は深いという意味においてのみ青 である青」。傍点があるので、単に「水深」のみではない深みを持つ。しかし青に含まれやすい別の意味―例えば冷たいとかさびしいとか、爽やかだとか若いとか―は取り除かれいる。ただ、ただ、深い青。

 「詩人が一人棲んでいる」という表現も好きだ。「」という漢字は本来、人間には用いない。いわば人でなしや人であって人でないような存在を示していると考えられる。その噂と、高原ではなく海に近い低さにあること以外、灯台についての情報がないことも、かえって読む者の内面に確かな「灯台」を立ち上がらせてくる。タイトル通り、この詩の核は灯台である。

 灯台とは、詩そのものではないだろうか。

暗闇に立ち続ける塔。夜の海にも嵐の空にも差す光。記した者の手を離れ、探す者の前に現れる。そんな作品を生み出せたなら、灯台守としての自分など、「いないにひとしい」が丁度よい。
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