「詩客」今月の自由詩

毎月実行委員が担当し、その月に刊行された詩誌から1篇の自由詩を紹介します。

第19回 ―北川朱実「夏の水」― 渡辺 めぐみ

2018-12-10 12:55:48 | 日記
 詩誌「朝明あさけ」第6号(2018年12月1日発行)から三重県在住の北川朱実氏の作品を紹介させていただく。「朝明」は東京都在住の三田洋氏が編集発行人を務める同人誌で、6号参加同人は三田氏の他に愛知県在住の詩人3名、群馬県在住の詩人1名に北川氏の6名である。北川氏は最近最新詩集『夜明けをぜんぶ知っているよ』(思潮社)で富田砕花賞を受賞され、他にもこれまでに2つの詩集賞を受賞されている詩人だが、この同人誌には地方在住の詩人が多いため全国的に広く行き渡っていない可能性もあると考え、取り上げさせていただくことにした。
 
 夏の水
               北川朱実

――むかし住んだ土地を歩きたいなあ
夏休みの青い子供の目をして父は私を誘った

父と初めての旅は
緑の絵の具をすこしずつ足すように
樹木が深くなり

藍染めの布を広げたような空の下
大きな建屋を頭にのせた水門があらわれた

貯水を 川に戻すためだけにある水門は

長い年月使われていないが
今もふくらんでいる
晴れ渡った空の下
雨はまちがいなく降り続いているのだ

――砂漠の村でV字型の屋根を見た
ふいに思い出したように父はいった
一滴の水も失わないというが

生まれた土地を遠く離れ
隊商にまぎれて青い辞典を売り歩いた年月

ことばにしない何を堰き止めているのだろう

――かえろう
夏帽子の奥でひらがなになるから
夕暮れた空の下を帰った

新しい靴が水たまりに入って
さびしさと親しくなって

 難しい言葉が使われているわけではないのに、すべて意味が通じるわけではない。ところどころ表現に詩的な飛躍があり、それがもの悲しく、時の流れや人の一生や父子の心の触れ合いについての繊細な抒情を醸し出している。「父との初めての旅は/緑の絵の具をすこしずつ足すように/樹木が深くなり」という第2連の詩行から、かつて実在した風景であると同時に幻視のごとく濾過されたような清涼な自然の美しさの中へ、詩人は読者を誘い出す。絵画的な展開感がありながら内面的広がりも持つ北川氏の詩行は、押しつけがましくならないようにそこはかとなく物語を紡ぎ出してゆくのだ。
 「ことばにしない何を堰き止めているのだろう」という詩行の深い余情は、私たちの生が決意して思うこととなしえたことの落差の中で運ばれてゆくことを想起させなくもない。「夏帽子のなかでひらがなになるから」という詩行も印象深い。ひらがなの優しさは子ども時代の幼さや成長の芽をもつものの柔軟さの魅力を孕んでいるかのようだ。
 「新しい靴が水たまりに入って/さびしさと親しくなって」という最終連も育つ過程で傷ついたり汚れたりすることへの温かい抱擁が感じられる。それが人生であり、そのようにして詩人は少女から女性になったのだろう。けれどもそれがえげつない描写を捨象してシャーベット色の外国の御伽話のように描かれる。そのぶん切なく帰巣本能を刺激する。人は誰しも「かえろう」と時々自分に呼びかけながら生きてゆくのかもしれないとこの詩を読んで思った。いつまでも心の中でくゆらせたい触れ得ぬものが住んでいる詩だ。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿