「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 毬から地下へ 久谷 雉

2018年09月22日 | 日記

   毬の中で土の嗚咽を聴いてゐた

 「LOTUS」三十八号は、昨年五十五歳という若さで急逝した同人の吉村毬子の追悼特集。上の一句は酒卷英一郎、三枝桂子、九堂夜想、表健太郎の四氏が編んだ吉村の四百句選から引いた。この俳人の代表句の一つとして挙げている人も多い。
 句そのものが助動詞「」に収斂していくような構造になっているせいだろう、まるで報告書から一部を切り取ってきたかのような冷ややかな趣きのある一句だ。しかしながら、この句の背後にうごめく情念の波は実に複雑な紋様を描いている。
 ここでは「」という球体が一つの密室として捉えられているが、語り手が内向する場として、この空間は設定されている。そもそも「毬子」という俳号に、この小道具が重ね合わせられていることは想像にたやすい。
 同時に「」は、動的な存在でもある。「」にいくたびも叩きつけられ、またそれゆえに「」を「嗚咽」させてしまう。いや、「」自体と「」のぶつかり合う響きが、「」の内部にいる語り手の耳に「嗚咽」のごとく、くぐもって聴こえてしまっているのか。語り手はおそらく、この「嗚咽」に自らの「嗚咽」を重ね合わせ、共苦の時間を生きようとしている。
 しかしながら、「」を「嗚咽」させている加害者もまた、「」という密室を設定せざるを得なかった語り手自身なのである。「」の内部に籠ることによって外部を遮断しようとするが、そのために設けたはずの膜が、激しく外部とぶつかり合う。
 内向する意志の力が、その強さゆえに、逆に外向せざるを得ない状況に追い込まれていく。
 上のようなジレンマを抱えた情念が核にあるにも関わらず、マテリアルな感触が句の全体に及んでいるのは、先にも述べたが「聴いてゐた」という口語常体の採用によるところが大きいだろう。過去の助動詞「」は一種の切れと捉えてもよかろう。
 内向と外向のせめぎあいに対して、句そのものの文体は距離を保っている。
 また、その距離によって、自身の内部に生じたものをどこかしら超越的な視点から語り手は眺めることになる。
 そこから生まれるこの句の透明性は、いわばジレンマと素朴性が両立する、そんなパラドキシカルな生のありようを見事に顕にしている。

   啞蟬は夜の海へと膨らみぬ

 「啞蟬」とは求愛の声をあげることのない、雌の蟬をさす言葉だという。生の熱量を外部に放出するための声を持たぬ蟬が、それを内部に抱えたままひたすら肥大してゆく。
 「啞蟬」がおもむく「夜の海」は、内部に夥しい混沌や浮遊物を含みつつも、闇に包まれているゆえにそれらが一切見えない空間だ。
硬質な殻のような肉体に閉ざされたまま肥大していく「啞蟬」と、軟体動物のように自在にうごめく「海」とが緊迫感を持って向き合っている。
 同時にそれらは、「啞」すなわち声を失ったものと「」すなわち光を失ったものとの対比でもある。また「」に与えられた一週間という限られた生の時間と「」が抱えている悠久の時間も、明確な対をなしている。そしてこの対比の軸に配置されているのは、〈女〉というモチーフであることは確認するまでもなかろう。
 いや、〈女〉が軸になっているというよりも、〈女〉の中の両義性を幾重にも一句の中に織り込んでいるのだ。また、それゆえに生まれる遠近の感覚がある。あるいは遠近が先にあって、その延長線上に〈女〉が存在しているかのような、そんな倒錯した感覚さえ生じてきそうな迷宮性がこの句には渦巻いている。

   少年や卵弔ふ蟲時雨

 「蟲時雨」は秋の季語で、夥しい数の虫たちが鳴く様のことを指す。虫たちの寂寥感あふれる声に潤わされた夜の闇の中に、真白な「」がぼんやりと浮かび上がっている。先の「啞蟬は」の句と同様に、形を持たぬ虫たちの声と、確固たる輪郭を持つ「」が対になっている。
 さて、この「卵」は孵化の日を待たれている、いわば生そのものであるかのような存在でありながらも、「弔ふ」行為の対象とされてしまっている。もしかすると、この句の「」は孵化の望みをすでに断たれた状態なのだろうか。
 いや、あるいは孵化という現象そのものが、「」の形態ではなくなること、すなわち「卵」の死としてここでは捉えられているのかもしれない。
 いずれにせよ、「」という密室はそれが閉ざされたままであるにせよ、開かれるにせよ、死を免れない。もちろん、それらは、「」が生を育む密室として機能するということが前提になっている。
 「」を「弔ふ」者は、「弔ふ」行為を通して、自らの中の「少年」を発見する。この世界のあらゆる細部に働いている生と死の力学におののくことのできる、繊細な触角がまだ残されていることを確認する。「少年が」という主語的な叙述ではなく「少年や」と切れ字が使われているのも、それを暗示しているのだろう。
 同時に、「」という表面的には無個性な物体を「弔ふ」という行為にはどこかしら、遊戯性が感じられる。「弔ふ」ということはそもそも、死者の個体性に思いを馳せることを前提とした行為でもある。しかし、思いを馳せるべき個体性が「」にはないゆえに、「弔ひ」は最初から破綻を抱えている。またそれを実践してみせる蛮勇の向こうにも、「少年」の影がちらついている。

 ここで取り上げた三句は、吉村の俳句としてはシンプルな構造のものに偏っているかもしれない。しかしながら、降りても降りても終わりの見えない地下室への階段のような暗い奥行きがある。また、その奥行きはその深さゆえに、吉村の俳句を読む者自身の地下にも通じていることだろう。

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