短歌散文企画 砕氷船

短歌にまつわる散文を掲載いたします。短歌の週は毎週第1土曜日です。

第8回 川柳スパイラル句会・我妻俊樹さん×瀬戸夏子さんの対談をわたしはきいた 柳本 々々

2018-06-01 15:38:52 | 短歌
この日はノートをとりながらいちばん前の席できいていた。窓からは王子の街がみえ、あれは丘かな、ラブホテルかな、と思ったりもしていた。わたしに関係のない丘、ラブホテル。対談がはじまる。

川柳スパイラルの我妻俊樹さんと瀬戸夏子さんの対談で、川柳は《特別に縁取られた最小の言葉》というふうな我妻さんの言葉が印象的だった(ちょっとわたしの記憶を通してるので正確じゃないかもしれないですが)。

私も川柳ってふっと口をついて出た短い言葉が少し特別なパッケージをもっていた、それが五七五にたまたま近かった、それくらいでいいんじゃないかと思う事がある。

もうひとつ、我妻さんが、川柳は、引き返すこともなく引っかかることもなくそのまま《通り抜けれられる》ことば、と言われていたのだが、それは川柳が無意識の詩的言語と近いことととどこか関係しているんじゃないかとも思った。無意識の断片というか。

例えば私たちが無意識を知るのは、言い間違いや忘れ物、寝言などにおいてだが、それらは、引き返すことも引っかかることもなく《そのままやってしまう》。やってしまって、通り抜けてしまってから、後で気づく。川柳も通り抜けた後から気づくものなのではないか。後から気づく文芸。それが川柳だったと

またもうひとつ。

瀬戸夏子さんが現代詩における詩的言語について話されていたが、川柳もまたそのつどそのつど約束ごとをつくっていくようなその約束ごとに拘束されつつ乗り越えていくようなそういう詩的言語として捉えてもいいのではないか。川柳は現代詩と同じような詩的言語として捉えると凄く楽になるようなきがする。

今回我妻俊樹さんと瀬戸夏子さんの対談が面白かったのは、川柳の枠組みではなく、ことばの構造や詩的枠組みから、ふっと川柳にアクセスしたこと、詩の枠組みやことばの枠組みから近づいたこと、それがとても刺激的だった。川柳を、剥き出されたことばのようなところからとらえてもいいという視点。そういう視点をもらったようにおもう。

詩や怪談から川柳をもっととらえかえしてもいいのではないだろうか。もっといえば、ねごとやいいまちがいから川柳をとらえなおしてもいいはずである。たとえば、詩や怪談が世界のボタンのかけちがいだとしたら、川柳もそういうところがあるのではないか。わたしは今もそうおもってる。ねるまえに。
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